評論

素描という作業がもたらす自己表現への影響
私には生まれつき絵心というものがない
きっと母親の子宮の中に忘れてきたのだろう
後から生まれた同胞に
その忘れ物が全て備わっていた
わざと残してきた
私の優しさだったかもしれない
両親の遺伝子の再分配なんて
平等な確率で発現するはずなのに
同胞でこうも差が出るとは残酷なメカニズムだ
そんな私だが、最近はなぜか絵を描き始めている
そして、絵心のない私は
気まぐれで美術館へ足を運ぶ
そうすると
まだ意識していなかった
自分の課題がポンと浮かぶ上がってくる
知識だけの学びでは得られない不思議な現象だ
絵そのものの鑑賞より
画家の人生と変容に興味がある
一人の表現者としての
作品と人間性の進化の関連を感じてみたい
そんなわけで
先日、郷土画家でもある
石本正の企画展に行ってきた
自分の表現の課題と合わせて
洞察したことを語ってみたいと思う
後から振り返ったときに
どんな恥ずかしさを感じようとも
今出せるものを出さなかったら
恥より残念な感情である後悔が残るだろう
そう思って
あまり深く考えずに
その時の直感に従って何かを発してきたと思う
今考えたらそれは
ただの素描に過ぎなかったのかもしれない
展示場に足を踏み入れた瞬間
そんなことを察した
入ってすぐに目に飛び込んだのは
初期の時代
1つの作品のために
無数の素描が描かれていた
まだ作品としてのカタチを成す前の
ひらめきのままに描かれたイメージたち
輪郭も訴えたいこともぼやけている
けれど何か気迫が感じられる
それを重ねて重ねて
だんだん輪郭を帯びてくるのだ
素描を続けている間は
時に不安になるかもしれない
このぼやけたイメージが
いつか何かになるだろうか?
私も常に疑いながら
ぼやけたものを発してきた
たしかに、素描の段階では
人目にさらす必要はないのかもしれない
そう考えると
やっとの思いで世に生み出されるまで
どれほどのぼやけたイメージが
淘汰されきたのだろうか?
ああ、そうか
私は単に
素描を乱発していただけなのだ
抑えることが難しい
深いところからやってくる衝動のままに
目的や意味などはどうでも良くて
発すること自体が気持ち良かった
自己満足以外のなにものでもない
まさに、私の中に眠る素材を排出し続けていたのだ
そしてある時ふと気付く
思いつくままに乱発してるだけのはずのものに
頻回に出てくる共通点があることに
意識して出したわけではない
いつのまにか無意識に出されていたもの
それをかき集めると何かが浮かびあがってくる
自分の中にある素材をランダムに
出し続けることで
無意識にあったものが抽出されるのだ
その素材を集めて人に伝わりやすくするのが
編集でありデザインという
論理的な作業になるのだろう
しかし
素描という自分の深いところからやってくる
素材たちがなければ
そもそも魂を持った作品というのは
できあがらないのだ
画家や音楽家の人生と変容に触れること
後世に残してくれた作品の振動に直に触れること
それは、机上の空論のようなものからは知り得ない
本質的な何かを伝えてくれる
素描と編集の繰り返しで
自分のスタイルは出来上がっていく
無駄だと思ってきたことにこそ
何か大きな意味があったように感じる
素描つまり自分の本能や欲望など
深いところから沸き起こる創造の源泉なくして
編集やデザインだけで
何かを伝えるエネルギーは発せられるのか?
そんなことを
改めて考えさせられるひとときであった
もし私に絵心なんていうものがあったら
絵画鑑賞に関して
このような視点や洞察ができなかったかもしれない
やっぱり絵心は
母親の子宮の中に忘れてきて良かったのだろう
お腹の中に取りに帰りたいと
思ったこともあったけど
そもそも自分に必要ないものは
待って生まれてこないのだろう
それよりも
収穫できるほどに成長しているのに
まだ使えてない素材を抽出して
あれこれこねくり回す遊びの方がよっぽど面白い
自己表現は素描と編集の繰り返しなのかもしれない
自己表現において個性を研ぎ澄ますとは?
私の美術館での絵画鑑賞の仕方は
ちょっと変わっているかもしれない
だからなるべく1人で行くようにしている
作者や作品の
説明は事前に一切読まない
元々入っている情報は仕方がないが
初見の感覚に先入観や固定観念という
バイアスがかかるのが邪魔くさい
これは患者さんの診察においても同じことである
そして作品を直視しない
視点をずらしてなんとなく
ザーッと最初から最後まで
無心に眺めながら歩みを進める
この人ちゃんと味わって鑑賞してるのかな?
と思われても仕方ないだろう
絵画について
専門的な見解を述べることはできないが
今回も好き勝手に洞察してみようと思う
例外はあるが
多くの場合初期の頃の作品は
なんとなく暗くてじめっとしている
未熟ならではの魅力はあるかもしれないが
私のセンサーにはあまり響かないことが多い
思春期から青年期にかけての
作品が中心となっている
人間的な若さと
表現者としての若さと
勢いはあるけど
なんとなくまとまりがなく
訴えるものが乏しい
いや訴えてはいるけど
表面だけで叫んでいるような感じで
心の奥の方までは届かない
なんとなく
作品からもがきや迷いを感じるのだ
決して心地良い感覚ではない
ざわつくことはあるかもしれない
けどそのざわつきは
表面的で高次な自分が
反応しているに過ぎないのだ
最後までザーッと見終わった後に
ピンとき始めた作品まで戻ってみる
そこで初めてじっくり鑑賞したり
解説を読んだりし始める
するとそれは大体40歳前後に
描かれた作品だったりする
明らかにそれまでの作品と何かが違う
心のずっと奥の方まで何かが届いてくる
それまでは準備に過ぎないんだと思う
素描と編集を繰り返して
作品を生み出し続ける中で
出来上がってくる自分のスタイル
そこには訴えたいものが凝縮されてくる
これは人のライフサイクルにおける
成熟の過程にも同じことが言える
40歳ぐらいからやっと本当の意味で個を
意識できるようになるのかもしれない
自分とは何か?
自分自身はどうありたいのか?
自分にしかできないことは何なのか?
自分、自分、自分、、、、、
徹底的な個への渇望
そこに自分発の何かがある
まわりからの雑音には左右されなくなる
そうして初めて
深いところからエネルギーを放ち始める
そこに迷いは感じられない
見ていて気持ちがすかっとする
もがきの後に得られる快感のような
そこから改めて
自分の本当の人生が始まるのかもしれない
思春期ごろから本格的に始まる
自己の確立に向けての人生の旅
何者かになろうとしてもがいた先にあるのは
何者でもない自分を受け入れて
味わうことなのかもしれない
芸術家の人生と
作品への反映をリンクさせて眺めていると
そんな思いが湧きあがってきた
画家のような芸術家じゃなくても
人間は何かしらの表現活動をしている
それは精神内界を映し出す
スクリーンのようなものである
ごまかすことをもできるし
飾り立てることもできるし
自分をそのまま出すこともできる
はっきりとした何かをつかむというより
その模索過程の反映こそが
人の心を打つ芸術作品になるのであろう
そう考えると
人は誰でも芸術家なのである
誰でも理想の両親像を胸に抱いて
この世に生まれてくる
親も子に期待するかもしれないが
最初に期待を向けるのは
子から親に向かってなのかもしれない
理想の両親像と
現実の両親像のギャップに
欠乏感を抱えたまま
関係が構築されていくものである
もし子供の方に
理想の両親像がなければ
親というのは所詮こんなものか
と最初から受け入れあきらめるだろうが
どこかで何かを期待しているから
愛を感じなかったり
欲求に応えてくれなかったりすると
悲しくなるものである
お互いの素質によって
大なり小なりさまざまだと思うが
親という役割を持っていても
神ではなく人間なので
そのギャップが埋まることは
なかなか難しいものである
そもそも親がいない人もいる
そういう場合どうやってその欠乏感は
満たされていくのか?
思春期を超えて
社会に出て行ってからも
誰かに手放しで認められることで
その欠乏感が埋まっていく
理想を放棄することも大事だが
誰かに手放しで認められる経験が
どれほど自分の力になるか?
石本正と川端康成の関係から
洞察したことを元に論じてみたいと思う
若い時のもがきを経て
やっと手に入れた自分軸であっても
時々不安になることはあるだろう
自分さえ自分を認めていればいい
何度そう言い聞かせても
心のどこかでは
誰かに認めてもらいたい欲求が
捨て切れないかもしれない
自分を信じて
表現活動を続けているけど
果たしてこれでいいのだろうか?
と心細くなるかもしれない
石本正の作品をザーッと眺めていると
あるところから明らかに迫力が増した
戻って解説を読んでみて納得した
50歳ごろのことである
日本芸術大賞を受賞していたのだ
いや何も
その名誉や権威だけが力を与えたのではない
注目すべきは
その時の審査員の一人であった
川端康成が石本正の推薦において
一歩も譲らなかったという点である
実は審査員のもう一人の有力者は
別な画家を推していた
両者一歩も譲らず
揉めに揉めた結果
異例の二人受賞に至ったというのだ
ここからは推測だが
石本正にとって
賞をもらうことはどうでもよかったかもしれない
その証拠に
この賞以降の全ての賞を辞退している
川端康成という文豪から
手放しで自分の作品が認められた
自分に賞を取らせることにおいて
一切妥協せず
周囲の圧力にも屈せず推し続けてくれた
この経験が
芸術家としてその後活動していくことに
どれほどの力を与えただろうか?
自分自身では
自分のことを信じていたけれど
自分以上に
自分のことを手放しで賞賛し
認めて信じてくれた人がいた
これこそが
社会から受ける理想的な父性像なのかもしれない
とさえ思った
そこからの石本画伯の作品は
凄みが増していた
自信と確信が
みなぎっていたのかもしれない
「書きたいイメージがどんどん湧いてきて忙しい」
創造の泉が吹き出し
描いても描いても追いつかないように
感じていたそうだ
人生の旅路で
誰かに一度でもいいから
手放しで無条件に
自分を賞賛し認めてもらえる
しかし、誰でもいいわけではない
自分がこの人から認められたら
誇らしいなあと思える人から認められる
川端康成は自死の3ヶ月前に
アトリエを訪れ
描きかけの裸婦像をみて
「もうすぐ観音菩薩が誕生しますなぁ」
と言い残したそうだ
これほどの賞賛があるだろうか?
誰かから手放しで認められた経験により
得られた自信は
また誰かに自信を与えられる存在に
なるかもしれない
自信の連鎖だ
95歳でその天寿を全うするその日まで
画伯は自分のアトリエで描き続け
30もの未完成の作品が残されていた
最後に展示してあった
未完成の作品からは
ああ、まだまだ描きたかったなあ
というちょっと物足りない気持ちと
生きている間に十分生み出せた
という充足感が入り混じっているような
ちょうどよい幸福感を感じた
労働には限界があるが
表現活動は続けたいだけ続けられる
もがきもあるけど
生み出せることに快感も得られる
平均寿命まで生きようとするなら
時間はまだたくさんある
何も焦ることはない
たった2時間の石本正企画展鑑賞だったが
たくさんのインスピレーションをもらえた
完