「考えすぎかもしれない」で、本音を引っ込めていないか

  
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「考えすぎかもしれない」で、本音を引っ込めていないか

「考えすぎかもしれない」と思った瞬間に、本音は沈められている

違和感が浮かぶ。
何かが引っかかる。
本当は、もうわかっている。

それなのに、

「いや、考えすぎかもしれない」
「こんなことで気にするのはおかしい」
「ちゃんと大人として振る舞わないといけない」

そうやって、自分で自分の感覚を打ち消す。

その瞬間、
本音は引っ込められる。

多くの人は、
「考えること」が正しいと思っている。

論理的であること。
冷静であること。
バランスが取れていること。

確かにそれは重要だ。

しかし、

発達しすぎた思考は、
本来守るべき感覚まで抑え込む。

本音だけでなく、
直感や違和感、さらには「いい感覚」までも。

そもそも、違和感は間違いではない。

それは、
自分の基準がまだ生きている証拠だ。

だが人は、
その感覚を信じる前に、必ず思考で検閲する。

「それは正しいのか?」
「それを言っていいのか?」
「周りからどう見られるか?」

この検閲を通ったものだけが、
言葉として外に出る。

つまり、
すでに“加工された自分”しか出ていない。

この構造を作っているのは、
肥大した道徳心や倫理観である。

「こうあるべき」
「こうしないといけない」

それ自体は社会で生きるために必要だ。

しかし、それが過剰になると、
自分の心のあり方そのものを蝕む。

内側に、常に監視している何かがいる。

その監視に従い続けるうちに、
本来の自分の感覚は、次第に見えなくなる。

実態のない何かに見張られている感覚は、
まさにこの内在化された監視の働きである

40代になると、このズレは顕著になる。

仕事も経験も積み上げてきた。
社会的にもそれなりにやれている。

だが内側では、

「これでいいのか」
「何かが違う」

という感覚が消えない。

それは、能力の問題ではない。
むしろ逆で、

感覚を抑え込み続けてきた結果である。

本音を出せないのではない。

出しているつもりで、
直前で引っ込めているだけだ。

「これは違う気がする」
「もっとちゃんと考えないといけない」

そうやって、せっかく浮かんだ感覚を
自分で潰している

ではどうすればいいのか。

難しいことはない。

「考えすぎかもしれない」と思った瞬間に、
一度止まることだ。

そして、

・最初に浮かんだ感覚は何だったのか
・なぜそれを打ち消したのか

そこに目を向ける。

思考を増やすのではなく、
思考の“前”に戻る。

本音に自信が持てたとき、
初めて自信は回復する。

それは、
誰かに認められたからではない。

「自分が感じたことを、そのまま採用できた」
という経験によって生まれる。

自信とは、
能力の証明ではない。

内側の感覚を裏切らなかった回数で決まる。

考えすぎているのではない。

考えすぎることで、
本来の自分を抑え込んでいるだけだ。

本音は、最初から間違っていない。

疑っているのは、いつも自分のほうだ。

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