娘から「お父さん、本当は何がしたかったの?」と聞かれた男が、消えてない夢を語れる自信を再駆動するには?
子供の純粋な問いは、置き去りにしてきた自分を呼び戻す。夢が叶わなかったと嘆かなくていい。その思いを持っていた時期があることが、人生を支えている。だから堂々と伝えていい。
「お父さん、本当は何がしたかったの?」
娘のその一言が、予想以上に胸に刺さる。
別に責められているわけではない。
ただの好奇心から出た質問かもしれない。
でも、その純粋さが怖い。
大人になって、仕事を覚えて、責任を背負って、家族を養って。
そうやって「ちゃんとした大人」を演じているうちに、いつの間にか、自分が本当は何をしたかったのかを忘れていた。
いや、正確には忘れたわけではない。
見ないようにしてきただけだ。
現実を生きることに必死で、夢を語る余裕なんてなかった。
夢を諦めたことを認めたくなくて、「今が充実している」と自分に言い聞かせてきた。
でも、娘の問いは、その防衛を一瞬で突き抜けてくる。
そして気づく。
自分は、娘に何を語ればいいのか。
「夢は叶わなかったけど、まあこれでいいんだよ」と言うべきなのか。
「現実はそんなに甘くないんだ」と教えるべきなのか。
それとも、今からでも何かに挑戦している姿を見せるべきなのか。
答えが出ない。
だから、曖昧に笑って、話を逸らす。
けれど、その瞬間の自分が、どこか情けなく感じる。
夢を持つことの尊さを、自分自身が信じられなくなっていた。
だから、娘にも語れなかった。
そうやって、ロマンを失った大人になっていた。
人は、現実を生き抜くうちに、いつの間にか「夢を語ること」を恥ずかしいと思うようになる。
学生時代には平気で言えた。
「将来はこうなりたい」と。
「こんなことをやってみたい」と。
でも、社会に出て、失敗して、嫌な現実を見て、傷ついて。
そうしているうちに、「夢を語ること」が、どこか青臭く、幼稚に感じられるようになっていく。
だから人は、夢を語らなくなる。
「現実的になった」と自分に言い聞かせる。
けれど本当は、傷つくのが怖いから、語らないだけだ。
夢を口にすれば、それが叶わなかった時に惨めになる。
周りに笑われるかもしれない。
自分の無力さを突きつけられるかもしれない。
だから、最初から「そんなものはない」ことにしておいたほうが楽だった。
でも、そうやって夢を封じ込めているうちに、人は少しずつ、生命力を失っていく。
別に何もかも諦めたわけではない。
日々の仕事もこなしている。
家族も守っている。
でも、どこか虚しい。
どこか、自分の人生を生きている感じがしない。
「これでいい」と思いながら、どこかで「本当はこれじゃない」とも感じている。
その矛盾を抱えたまま、日々を重ねていく。
そして、娘の一言で、そのズレが浮かび上がる。
でも、そこで諦める必要はない。
夢が叶わなかったと嘆く必要もない。
むしろ大事なのは、その思いを持っていた時期があるということだ。
かつて、自分は何かに憧れていた。
何かを成し遂げたいと思っていた。
何かに夢中になれる自分がいた。
その事実そのものが、人生を支えている。
夢が叶ったかどうかは、実はそれほど重要ではない。
「こうなりたい」と思えたこと。
「こんなことをやってみたい」と胸が高鳴ったこと。
そういう瞬間があったことが、人を人にしている。
だから、堂々と伝えていい。
「お父さんは、こういうことをしたかったんだよ」と。
「今はできていないけど、あの頃は本気でそう思っていたんだ」と。
それは、負け惜しみではない。
むしろ、生きてきた証だ。
娘が知りたいのは、父親が「成功したかどうか」ではない。
本当に知りたいのは、父親がどんな思いで生きてきたのか、ということだ。
何を大事にしてきたのか。
何に心を動かされたのか。
何に怒り、何に喜び、何に悲しんだのか。
その内側を知りたいのだ。
だから、結果ではなく、過程を語っていい。
成功ではなく、葛藤を語っていい。
その時、娘は安心する。
「ああ、夢を持つことは恥ずかしいことじゃないんだ」と。
「叶わなくても、それでいいんだ」と。
「大事なのは、その思いを持ち続けることなんだ」と。
逆に、もし父親が夢を語らず、現実だけを語ったとしたらどうだろう。
「夢なんて意味がない」
「現実を見ろ」
「できることだけやればいい」
そんなメッセージを受け取った子供は、どこかで夢を持つことを諦めてしまう。
あるいは、夢を持つことに罪悪感を抱くようになる。
そうやって、次の世代もまた、ロマンを失っていく。
でも、もし父親が、恥ずかしがらずに夢を語ったなら。
叶わなかったとしても、それを笑いながら語れたなら。
その姿は、子供に「生きる勇気」を与える。
「ああ、大人になっても、夢を持っていいんだ」と。
それは、子供にとって、何よりも大きな許可になる。
だからもう一度、思い出してみてもいい。
自分は本当は、何がしたかったのか。
どんなことに憧れていたのか。
どんな自分になりたかったのか。
どんな人生を夢見ていたのか。
それを、もう一度言葉にしてみる。
最初は恥ずかしいかもしれない。
「今さらこんなこと言っても」と思うかもしれない。
でも、それでいい。
その恥ずかしさの奥に、本当の自分がいる。
夢を語ることは、弱さではない。
むしろ、強さだ。
「こうなりたい」と思える人間は、まだ生きている。
「どうでもいい」と思った瞬間、人は内側から死んでいく。
だから、現実を頑張ってきた男が、ロマンを思い出す瞬間があってもいい。
それは逃避ではない。
再起動だ。
自分の中に眠っていた何かを、もう一度点火すること。
そして、その灯を、娘に見せること。
「お父さんは、こういう人間だったんだよ」と。
その時、娘は父親を、もっと立体的に見るようになる。
「仕事をしている人」ではなく、
「夢を持っていた人」として。
「現実を生きている人」ではなく、
「ロマンを抱えたまま、それでも現実を生きている人」として。
その姿は、きっと、娘の心に残る。
そして、自分自身の中でも、何かが変わり始める。
夢を語った瞬間、その夢は、また少しだけ息を吹き返す。
叶えなくてもいい。
でも、持ち続けることはできる。
その思いを持ち続けている限り、人は、どこかで自分を見失わない。
「お父さん、本当は何がしたかったの?」
その問いに、ちゃんと答えられる自分でいること。
それが、リブートの第一歩になる。