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小説「魔女医」

 

魔女医 ~璃球編~   

プロローグ

宇宙は果てしない。

しかし、その果てしない宇宙の外側に瑠宙は存在する。瑠宙にある惑星の一つに璃球がある。

璃球は、地球の十分の一の大きさで、人口は一億人ほどだ。

璃球の人々は地球の人間とほぼ同じだが、一つだけ大きな違いがある。

それは、無色透明で生まれてくることだ。

成長するうちに、その人それぞれの色が付いていく。

考え方や、物事のとらえ方、抱きやすい感情、とりやすい行動などが、成長とともに彩られ、体の色合いで表されていく。

もちろん、服を着て隠したり、ごまかしたりすることはできる。自分の体の色に自信がない人ほど、着飾る傾向にあるようだ。

しかし、裸になればすぐにわかる。その人の心がどんな色彩なのか。

そしてまた、一人一人の持つ色彩が、外に漏れ出して、世の中の色彩を作っていく。

何色が正解ということはない。その人その人に心地よい色合いがあり、それが合わさって世の中の色になっていく。

みんなの心が穏やかで、心地よい色合いだと、世の中も穏やかで心地良くなるが、逆もまたしかりだ。

生命を終えるときは、また無色透明に戻る。そして、どこかの男女の結びつきに引き寄せられて、新しい生命となり、再び生まれてくる。

地球と同じように、医者も存在する。璃球の医者は、臓器だけを診る。

それとは別に、体の色合いを診て、心の状態を探り、その人の心地よい色に戻していく魔女医も存在する。

魔女医は、その人に必要ならば、薬、薬草、おまじない、カウンセリング、マッサージ、ヒーリング、瞑想など、何でも取り入れる。

科学も、非科学も、自由自在に使うのだ。

どんな方法でもいいから、その人が癒やされ、苦痛から解放され、穏やかになり、心地良い色合いになれば、それが一番大切なことだと、心得ているのだ。

体を治療する科学技術はどんどん進歩しているが、最近は、体の色合いの良くない人が増えている。

明るすぎたり、ひどく濁っていたりする。

心の偏り、混乱、麻痺、ごまかしが反映されているといわれているが、なぜそうなっているのかは、わからない。

もしかしたら、瑠璃色の勇者に何か問題があるのかもしれない。

璃球ではその時代に必ず一人、瑠璃色の勇者が存在する。

瑠璃色は勇気の色なので、くすんでいると、世の中全体もくすんでしまうのだ。

そのためか、最近の魔女医たちは、大忙しだ。

毎日、相談に訪れる患者は、後を絶たない。

そんな、ある一人の魔女医の奮闘ぶりを、少しのぞいてみるとしよう。

「ポチッ」

第一章 魔女医「ヒトマ=ノマリ」

ここ璃球には、魔女医という職業が存在する。

いつの頃からか、ここの住人は、体に心という色を持つようになってしまったからだ。

魔女医というのは、いわば、魔力を持った女の医者だ。

なぜ、女かというと、女性は男性に比べて、魔的、つまり非科学的な力を使えるようになっているからだ。

男性も、年を重ねていくにつれて、使えるようになる人も増えてくる。

魔力は、魔法というより、直感力や、ヒーリング能力、占い、祈祷、などを指している。

魔女医は途中までは、普通の医者と同じように、自然科学に軸足を置いた医学を学ぶが、それに加えて、魔力の修行も積む。

一口に魔女医といえども、いろいろである。

普通の医者に近いやり方をする者もいれば、魔力中心に治療を施す者もいる。

町を好む者もいれば、森の奥深くに、ひっそりすんでいる者もいる。

そのうちの一人に、「ヒトマ=ノマリ」という名の魔女医がいる。

魔女医は「先生」とは呼ばれない。患者とは対等な関係だから、ノマリも「ノマリ」と親しみを込めて呼びかけられる。

この璃球の世界では、髪や目の色とはちがって、「テーマ」とも呼ばれるその人だけの色がある。ノマリは、太陽のような鮮やかで眩しい黄色だ。非常に陽の気が強いのだ。

だから、陰の気に適度に触れ合っていないと、燃え尽きてしまう。

陰気と触れ合うことで、バランスを保っているのだ。

住む場所も、この世の象徴である町と、あの世の象徴である森の境目である、町外れの、森の入り口に住んでいる。

若くもなければ、年寄りでもない。そろそろベテランと呼ばれてもいい年頃だ。

決して美人ではないが、中性的な少年のようで、年齢も性別も不思議と感じさせない。

髪も瞳も真っ黒で、あごにかかるぐらいのショートボブがよく似合う。

いつも、仕事の時には、体がすっぽり隠れる白いマントをまとっている。

いわば、真っ白いキャンバスの役目だ。ある意味、魔女医は「無」の存在でなければならない。

ノマリは音楽が好きだ。

家の近くには、石で作られたドームがあり、毎晩そこでピアノを弾く。

ノマリがピアノを弾くと、色とりどりのガラス玉みたいな音の粒が降ってきて、ノマリも、聴いている人も、体の色が整っていく。

視覚と聴覚が連動する瞬間、なんとも言い難い精神の快感が得られるのだ。

かしこまった演奏会ではないので、聴きたい人は、自由に出入りし、飲み食い、おしゃべりしながらリラックスして、音を楽しめる。

これも魔力の一つなのであろう。

患者さんに試して、効果のあったものは、魔法医療省に報告して申請すれば、新しい魔力として認定される。

他にも色々試して、患者の色を調整し、救える術ならなんでも取り入れている。たとえ、科学的に証明されてないことでも、効果があるものには必ず根拠があると、信じている。

しかし、ノマリはめんどくさがりだから、煩雑な書類業務を増やしたくないし、そこにエネルギーを注ぐのと、時間をとられるのがもったいなくて、学会などでの発表や、魔法医療省への報告を怠っている。

同じ理由で、資格や、肩書きにも、てんで興味がない。

学会や、資格更新のために時間と労力が取られ、自分の勉強や診療の時間が減るのがいやなのだ。

治療法の報告や、発表も、大きくは患者のためになるとわかってはいるのだが、どうも気が進まない。

実はノマリにも、研究をして博士号をとる寄り道をしようとした時期もあったのだ。

いよいよその道に進もうとしたとき、体の色が変になって、病気になった。

そっちの道には向かなかったのであろう。

そのあとは、元気を取り戻し、患者さんの気持ちもよりわかるようになり、なおいっそう、患者とのふれあいに喜びを感じて、治療に励んでいる。

また、病気になったあとは、音楽や舞踊など、自分の好きなことも思いだし、自分を満たしながら、生き生きと日々過ごしている。

研究とか、博士号とか、「やらねばならない」ことへの執着は捨ててしまったようだ。

病は気からというが、正気は病から始まる、ということもあるかもしれない。

病気になり、生きることへの集中力が高まったとき、雑念や無駄なものが削がれ、自分の本当の心に気づくのではないだろうか。

ノマリは動物も大好きだ。動物もノマリが大好きだ。動物からは一切警戒されない。子どもも同様だ。

子どもも、動物も、本能で直感的にその人物の本質を、とらえるからなのかもしれない。

動物や子どもと触れ合っていると、がんじがらめになっていた知性や理性がほぐれて、自分の本能が浮かび上がってくる。

だから、ノマリは、日々そのふれあいを大事にしている。

ノマリは、基本的に優しい。しかし、患者さんの害になることに対しては、厳しいところもある。

患者さん本人に対しても、家族や関係する人に対しても、関わる医者や魔女医に対しても、自分に対しても。

医学書や論文はもちろんのこと、あらゆるジャンルの本を楽しむ。

患者さんから、症状や色以外の、生活や人生の困りごとを、色々と聞かれるからだ。

まるで、「よろず相談所」や「駆け込み寺」のようになっている。

治療に通うだけでは、体の色がなかなか良くならない重症な患者は、魔女病院に入院することもある。

以前は、魔女病院は世間のイメージが悪かった。一度入ったら二度と出られない、ひどい拷問を受ける、悪いことをしたらそこに連れて行かれる、など。

体の色がおかしくなって、その結果、理解できない言動になって、ということが、病気として認識されず、なすすべがなかった時代に受けた誤解によるところが大きかった。

人は、理由や原因がわからないことには、猜疑心、不安、恐怖を抱きやすいものだ。そういう自分を納得させ、安心を得るために、真実をあらゆる方法で歪曲していく。

しかし、時を経て、薬も発達し、体の色の不調も治せるようになった。完治しなくても、その人なりの調和を取り戻すことができるようになってきた。魔女病院のイメージも変わりつつある。

安心して入院治療のできるところへ変わってきているのだ。

科学の病院であれば、検査の結果にある程度の異常がないと入院できない。だが、魔女病院は、検査の結果より、いろんな要因で結果的に色がくすんでいれば、一人暮らしで心細い患者でも、入院することができる。

今は、科学的な医療技術が発達し、人々の生活も豊かで安全になり、寿命が延びた。

昔は、脳が衰えきってしまう前に、寿命がきていたのだろうが、今は逆だ。

自宅で過ごせないほどに色が混乱している場合に、魔女病院に入院する高齢者の患者も増えている。

不思議なことに、最初はいやがっていた患者も、魔女病院に入院すると、同じような人が周りにいて、その状態が手放しで許されるので、案外すぐに落ち着いてくる。

そういう意味でも、魔女病院は、人が救われる、最後の砦ともいえるかもしれない。

生命の誕生を確認し、生命の死を確認する役割が、医者と同様に魔女医にも与えられている。

魔女医の場合、死に向かう患者に無理矢理色を戻そうと手を施すと、かえって本人の苦痛になることがある。

そういう場合は、静かに寄り添い、苦痛を取り除いて、安心して死に向かっていけるように診察、声がけをしていく。

もちろん、苦痛を取り除く手段が、専門の医者のほうがいい場合には紹介するが、滅多にない。

自然に寿命を迎えた人は、色が薄くなっていって、消えるように静かに穏やかに、最後は透明になって、その生命を終えるのだ。

ノマリは常々、死に向かっていくときに、自分とは別に、何かいい言葉がけをしてくれるような、宗教家などがいてくれたら、と思う。しかし、皆が皆、特定の信仰を持っているわけではないし、患者にあらかじめ死を予感させることが、いいのか悪いのか、悩ましいところなのだ。

誰だって、死ぬのはこわい。

ノマリが、初めて死を意識したのは十歳ぐらいであっただろうか。

そのころに比べると、死に対する恐怖は、薄れていってはいるが、こわさや抵抗があるものであろう。

生きていくということは、死への恐怖を克服していくことなのかもしれない。

最後に快く死を迎え入れることができれば、苦痛もないだろう。

生まれた時と同じ、ただ無色透明に戻るだけだから。

そういうことを患者に伝えていく役割も、医者や魔女医が担う。それも含めて、医術、魔術ととらえ、一生をかけて、人間性を磨いていかねばならないのである。

患者は、ノマリを頼りにしているが、ノマリもまた患者を頼りにしているのだ。患者さんがいないことには魔女医の存在価値もない。

しかし、だからといって、患者が増えることを、決してのぞんでいるわけではない。

どんな病気も、予防は大事だ。しかし、様々な防ぎきれない要因で、結果的に病気になってしまった人を、誰が責められようか。

最近は、科学の病院では、体の治療だけが済めば退院を促す風潮であり、体の色が整わない場合には、魔女病院へ入院することも増えてきている。

ノマリは、朝のうちは、通院の患者さんの診察をして、昼からは、入院患者の具合を診にいく。

外来の患者の通院間隔は、人それぞれだが、入院患者とは、一週間に一度は必ず会う。

もちろん、それ以外でも、具合の良くないときは診察にいく。

様々な理由で、なかなか退院できず、もう何年も入院している患者もいる。

そういう患者とは、友達以上家族未満、いや、ほぼ家族みたいな感覚だ。

入院患者同士も、看護師をはじめとする職員も同様だ。

毎日、顔を合わし、できる人は挨拶や会話をして、一緒に食事をとり、お風呂も入る。

血のつながりはなくても、それだけで、家族みたいなものだろう。

もちろん、気の合う、合わないはあるから、いろんなゴタゴタも起こるのであるが、最終的なまとめ役は、魔女医だ。

日常生活のある程度のことは、看護師を信頼して任せているが、大きな方針を決めるときには魔女医が登場する。

社会の一番小さなコミュニティーである家庭を想定すると、父性的役割と、母性的役割ということになるだろうが、現代は、その概念も崩壊しつつある。

現に、魔女医は女であるが、治療においては、父性的役割を担うのだ。

世の中も、男性が父性的で女性が母性的という固定観念を、緩めていってもいいのかもしれない。

大事なことは、子ども、病んでいる人、社会的な弱者を、守れる立場の人達が、自覚を持って、あるときは父性的にあるときは母性的に、支援、助言をしていくことではないかと思っている。

ちなみに、ノマリは独身だ。

恋愛経験がないわけではないが、いまのところ、患者さんたちを見守り支援していく、友人以上家族未満の立場を優先したいと思っているため、個人的な家族は持たないことにしている。

元家族、つまり生家とは、訳あって疎遠だ。

だから、余計に患者さんたちと、治療に関わるスッタフたちをたよりにしているのかもしれない。

ある一定、もしくは、急性期には、科学的な手法、つまり薬を中心とした治療が優先されることもある。そういう時には、魔力だけでは間に合わないこともわかった上で、魔女医は治療を選択している。

しかし、ある程度安定し、次のスッテプに向けて、魔女医の治療を卒業していく患者は、喜んで見送る。

できれば全員そうなって欲しいと願っている。

基本的には、来るもの拒まず、去る者追わずのスタンスである。いや、実際は、自分の色が不調であるという自覚がない患者の場合、現実検討能力が損なわれている場合があるので、引き止めたり、呼び戻したりしないといけない場合もある。

そういうわけで、ノマリは時々、通院に結びつかない人や、治療を受けるべきかどうか悩ましい人、対応に困っている家族の相談を受けにまわることもある。

ノマリの周りには、志を共にした、有能なスタッフがいてくれるから、治療に専念できる。看護師は治療の補助、補助看護は生活の支援、相談員は手続きやサポート体制の調整、など他にも色々な部門で共に患者を支えてくれる。

ノマリ一人ではとてもできないことだ。ただ、治療の先頭に立って、方針を決めたり、実際に治療を施すのは、魔女医だから、目立ってしまっているだけなのだ。

しかし、何事にもリーダーは必要である。全責任を負う覚悟で治療のリーダーを請け負っている。

結局、資格とか免許とかはそういうことなのであろう。責任を持ち、誠意を持って実践に当たっている者だけが持つべきであり、絵に描いた餅では意味がない。

最近は例えば若い医者や魔女医が、資格や肩書きや、研究成果を得るために、この病気はみるけど、この病気はみる必要がない、という四角四面な風潮も少なからずある。

そしてその資格を取得し維持するために、診療の時間や、個人的な時間が削られるということもあるかもしれない。実践力より、資格至上主義なのである。

医者や魔女医が、得意不得意で、診療中心、研究中心、管理中心、教育中心、と役割分担をすることには賛成だが、患者を治療することが、本分であるとこは間違いないので、本末転倒のようにも感じられる。

日々、責任と誠意を持って、目の前にいる一人一人の患者の治療に当たっている医者や魔女医が、気付いたらこんなにたくさんの患者さんが良くなっていた、という場合に、後から資格や免許を与えるのがいいような気がする。

今の制度では、実践力がなくても、少しの経験と、試験、レポートなどで取れるからだ。

ノマリは、必要最低限の資格しか取らず、そういうことに関して興味がなく、サボってきたから、負け惜しみもあるかもしれない。

また資格が増えると、逆に雑用も増える可能性があり、患者と触れ合う時間が損なわれることも嫌なのかもしれない。

単にノマリは、枠にハマったことや、形式的で中身が乏しいこと、細かい作業、地道な作業が苦手なのだ。

無理矢理やろうとすると、ゆううつになって、何もかもが嫌になる。

もっと、ベテランになりつつある自分に自覚を持って、その辺りもきちんとしていくべきなのかどうか、自問自答しているが、それも長くは続かない。

目の前のことに集中するのが精一杯だ。

幸い、魔女医は医者ほど、資格や肩書きは重視されない。

しかも、魔女医には、科学的には証明されてないことでも、効果があれば魔力として魔法医療省に届けて、治療に取り入れることができる。

ノマリは常々、科学を極めると非科学になるし、非科学を極めると科学になると信じている。

証明されていてもいなくても、誰かを救うことには、必ず根拠があり、どこかで繋がっているのだ。

逆に科学的に証明されたことでも、実践では害になることもある。

そういうことで、医者が行う一般的な治療以外にも色々取り入れることができる権限があるから、特別な資格がなくても、色んなジャンルを勉強して、必要なことがあれば自由に取り入れることができる。

逆にいうと、それが許されているということは、倫理観やモラル、人間性が試され、信頼されなければならないのだ。

それこそが、実践的救済が行える最強の権限だと思い、ノマリは責任を感じながらも十分満足している。

魔女医の治療は、患者との信頼関係で成り立っていることがほとんどなので、書類のやり取りなどはそんなに多くなく、必要最低限である。

しかし、最近の医者は大変だ。科学技術が進歩した分、治療も複雑で煩雑である。

情報手段も発達したため、患者もで得られる情報も多く、治療をより複雑なことにしている。

ちょっと侵襲的な難しい検査や処置をしようものなら、書類の嵐だ。

一体、誰を守るための治療なのかわからなくなる時もある。医者たちは常に、リスクと背中合わせの緊張感にさらされ、疑心暗鬼になり、視野が狭くなり、心が麻痺して、検査の結果や、ターゲット臓器しか見えなくなる医者もいる。

もちろん、みんながみんなそうではない。しかし、一歩間違うと、こういう状況になる危うさが、常につきまとう。

ノマリは偉そうなことを言うつもりはない。医者のなかには、魔女医を軽く見ている者もいるから、お節介を焼くつもりはない。

しかし、医者の問題で、患者を傷つける結果になることは、腹立たしい。

今のノマリにできることは、そういう医者に出会った時には、自分を振り返るいい機会だと思い、なぜ腹立たしく感じたか、内省し掘り下げることだ。

それでも、医者の行く末を、勝手ながら憂いている。

けれど、自分一人で解決できる問題でもない。

それができると思うなんて、傲慢極まりない。

自分にできることは、ただ、目の前にいる患者さんに、誠意を持って治療に当たるだけ。

そう思って、日々、治療にあたっている。

魔女医 第二章 ノマリの日常

フクロウの声が、小鳥たちの鳴き声が変わるころ、ノマリは、目が覚める。

「あー、よく寝た! 今日も目が覚めて良かった」

晴れの日は、ベランダに出て、朝日を眺める。曇りや雨の日は、部屋の電灯を見て、陽気のエネルギーチャージをする。

光を浴びれば脳のホルモンを活性化するのだ。

「さて、目覚めの儀式をするか。あ、ピョエリおはよう」

ピョエリは、飼っている猫だ。毛がフサフサで、体重八kgぐらいの、がっしりとした大型のオス猫だ。しかし、野生で生きていくことはできないので、ノマリは家族の一員として迎え入れている。

毛色は全身グレー一色で、目は緑色だ。

一人暮らしのノマリには、心強い用心棒だ。性格は穏やかで、いたずらはしない。

家に入ってきた虫を、せっせと駆除してくれる、おりこうさんだ。

ノマリは、ピョエリにあいさつすると、ぬるめのお水を、たっぷりコップ三杯ほど飲んで、たくさん呼吸をして、身体中に、酸素と水を送る。

その後、熱めのシャワーを浴びる。

清めの意味もあり、神経を活性化させる目的もある。

「さあ、今日も精一杯美しくなれ」

鏡に向かって呪文を唱えると、ヘアメイクに取りかかる。

ノマリは決して美人ではない。自分で五歳の時に気付いたのだ。周りの女の子と比べて、決して自分は可愛い方ではないと。つまり、容姿で生きていくタイプではないと。

自己憐憫というよりは、すでに自我を確立していたが故の残酷な気づきであった。幼いノマリには耐え難い現実への直面であったが、受け入れることによってほかの努力への原動力となった。

そうであっても、ノマリは、自分の容姿が嫌いではない。いやむしろ大好きだ。

だからこそ、ヘアメイクやファッションを、勉強してきた。

(一応、女に生まれたから、オシャレも楽しまないと損だしね)

女性という自覚を増す一方で、年を重ねるごとに、なぜか中性化が進んでいる。

身支度は、ノマリが一人の人間から、魔女医に変わる、変身の儀式だ。

(どうせマントで見えなくなるし、誰も気にしてないのにね)

と、自分にツッコミを入れながらも、ノマリは毎朝この儀式を楽しんでいる。

「さて、朝ごはんの準備をするか」

朝食を食べ終え、準備ができたら、ピョエリに行ってきますを言って、出かける。

車で、海を眺めながら、海岸線をはしって、海の見える丘にある魔女病院へ出勤する。

海は毎日姿を変える。彼方に見える水平線はいつも同じなのに、陸との境目の波打ち際は、まるで人間の感情のように、さざ波だったり、荒れ狂ったりしている。

ノマリはそんな海を眺めながら、行きも帰りも自分の心を整える。

出勤すると、首から、くるぶしまですっぽり覆ってしまうような、白いマントを、服の上から身に着ける。

患者に、自分の色の影響を与えないためだ。

治療上は、自分の色が、患者に極力、転移しないように、また患者の色も、自分に逆転移しないように、そうする。

しかし、ノマリは秘かに、色の転移、逆転移も、治療に必要なことだと思っている。

ただ、お互い大揺れすることは、無駄に疲弊するので、避けたいところだ。

真っ白いキャンバスの役目が一番だが、生身の有機的な交流で、色を触れ合わせ、通わせ、共同でいい色を作り出していく。そうやってお互いの調和のポイントを見つける、といのも治療として悪くないのではないかと感じている。

(さて、今日はどんな患者さんと、どんな触れ合いができるのかな?)

朝の九時から診療は始まる。

もうたくさんの患者が来て、待合室で待っている。

きちんとした身なりの人もいれば、無頓着な格好の人、ちぐはぐな格好の人もいる。

ある患者は、慣れた様子で気楽に本を読んで過ごし、ある患者は一人で呟き続け、ある患者は苦悩して頭を抱えている。

大声で、かみ合わない会話をしている人もいれば、一人で静かに過ごしたくて、離れた場所でうつむいている人もいる。

初めての人は、落ち着かなかったり、どうして連れてこられたかわからず、怒っていたりすることもある。

待合室の時点で、悲喜こもごもだ。

「ンヲさん」

今日の一人目は五十代男性だ。

中肉中背で、卵型の整った輪郭に、クリッとした目をしていて、同世代の男性に比べると、あどけなさが感じられる。世間ではいわゆる中年世代なのに、少年のような面影がある。

「どうですか? 調子は?」

「はい。やっぱり死にたいです」

ンヲさんは、いつも笑顔でこう答える。

しかし、瞳の奥は、笑ってない。

取り繕い、ぎこちなく、何かを見破られないための、精一杯の笑顔だ。

その笑顔も、言葉も、何にもそぐわないし、何もかもがバラバラだ。

「死ぬための具体的な方法を考えるほど、思い詰めているの?」

心配して、毎回たずねる。

「いや、そこまでじゃないんですけど、とにかくもう死にたいんです」

裸になってもらい、色を見てみると、全体的に、純粋な清色で明るめの緑色を持っているが、複雑さはなく単純だ。

知的能力は高くはないが、真面目で素直な色だ。

しかし、一ヶ所ドス黒いところがあって、そこから全体に淀んできている。

実際、軽い不眠と、ゆううつさを除いては、問題はない。持ち前の真面目さと素直さと、優しくて穏やかな性格で、毎日早朝からパン工場の従業員として、仕事も頑張っている。

しかし、色が心配なのと、なにせ「死にたい」なので、二週間に一度は受診してもらっている。

結婚歴はなく、両親が他界してからは独り暮らしだ。

料理や家事は問題なくできるので、今のところ生活は破綻していない。

社会機能も、生活機能も保たれていて、人格もさほど偏りがない。職場の人間関係も悪くない。

一体、この人のドス黒い部分の正体は、なんなのか?

ノマリは、二週間に一度、ンヲさんの診察をしながら、一年以上の間、不思議に思っていた。

うまく説明できないだけで、独り暮らしのさみしさが大きいのか? 

それにしてもドス黒過ぎると、時が経つにつれて違和感が大きくなっていった。孤独感を軽減できればと、本人の同意を取って、訪問看護を導入することにした。

このように、午前中に三十人ぐらいの患者を診察する。

終わったら、昼食を軽く済ませ、午後からは病棟の診察に行く。

入院している患者は、重症な人が多い。十分に治療を施していても、あらゆる魔力を試しても、歯が立たないこともある。

不調の種類にもよるのだが、感情だけが不調をきたしている場合は割と良くなりやすい。調和を取り戻せば、本来持っている能力は保たれているので、日常生活、社会生活に戻っていける。

しかし、思考が障害されるような不調だと、その言動はまとまらないままで、本人も周りも混乱状態になるため、なかなか日常生活や社会に戻れない。

程度が軽ければ、支援を受けながら、社会で生活もできるようになる。

それも難しい場合には、入院生活を続けるしかない場合もある。

「かわいそうに」という人もいるが、憐れまれるほど、患者たちは不幸ではない、とノマリは感じている。

ほとんどの患者は、波がありながらも、大筋では自分の病気を受け入れ、病院や支援を受けて生活するコミュニティなどの社会で、懸命に生きている。

混乱した色が完ぺきな調和を取り戻すことはなくても、その人なりの調和のなかで、心地よく過ごせるようにはなる。

思考に不調があると、患者の言葉は断片的で、文章にならなくなる。

まったく新しい言葉を自分で生み出して、使うこともある。会話が成り立たないことも、しばしばだが、なぜかノマリは、大体何が言いたいのかわかるのだった。

病棟は、鍵のかかるところもある。

妄想や幻覚の影響で、突飛で危険な行動をとってしまうことがあるからだ。

また、脳機能が低下している高齢者に起こりやすい、せん妄という症状もある。

幻覚妄想とは違い、意識の障害だ。本人は夢のなかにいるのだが、体は起きていて動くから、とんでもない行動をしてしまうというものだった。

これは、特別に重症な精神の病気でなくても、脳を持っている人であれば、誰でも起こり得る症状なのである。

そういう症状もあるわけなので、ある程度行動を制限をしないと、安全を保てない場合もあるのだ。

誰かが、二四時間寝ずの番をしても、そのエネルギーがすご過ぎて、抑えきれないことがある。

高齢者夫婦の二人暮らしで、どちらかにこういう状態が起こると、共倒れになってしまう。無理心中を考えるまで、追い詰められるのも、わからなくもない。

患者と、その周囲で関わる人を、守るためであり、鍵をかけることは、法律上は認められている。だが、そういう事情を知らない世間の人々のなかには、「閉じ込めてかわいそう」と言う人もいる。現状がわからないままの、中身のない憐れみが、どうやって人を救うのか?

たしかに、幻覚妄想や、せん妄において、何を持って現実とするかは、難しいところだ。その人に起こっていることと、現実の大多数の人が認識していることが、決して一致することはなく、パラレルワールドにいるようなものなのだ。しかし、その人の精神内界においては、現実に起っているのだ。

だから、ある時は、その場から逃げ出したくなるし、ある時は、何かに呼び出され、そこへ行きたくなるかもしれない。

または、何者かに襲われ、自分を守ろうとして他者を攻撃するかもしれないし、大声で怒鳴り威嚇するかもしれない。

そういう時には、もう体の色は混乱している。徐々に整えるような魔力は通用しない。

すぐに効く科学的な薬物での鎮静や、行動制限や、どうしても危険な場合の一時的な安全ベルトなどの物理的手段で乗り切るしかないのだ。

そういう意味で、魔女医は科学的手段も、非科学的手段も、どちらも状況に応じて適切に使えなければならない。

この日の昼食後、ノマリが、閉鎖病棟の鍵を開け、病棟に入るやいなや、

「ノマリ、ワロさんが、朝からものすごくお腹を痛がってて」

と、四十代の男性看護師が、心配そうに言ってくる。

なぜか、男性患者から絶大な人気と信頼のある看護師だ。

よく様子を観察してくれるし、優しく諭してくれるから、患者さんも信頼して、助言を聞いてくれる。そのベテラン看護師からの報告だった。

「え? 大丈夫なの?」

「ええ、ノマリは午前中忙しそうだったので、他の魔女医に血液検査の指示だけもらってしておきました。意識はしっかりあるし、熱もなくて、血圧も呼吸も問題ないので、様子を見ていたのですが、とにかく痛がってて……」

ワロさんは、六十代男性で、二十代からもう長いこと、重い精神の病を患っている。

体の色は全体的にぼんやりとして、少し混乱しているが、爽やかで優しいブルーを中心とした色合いをしている。

安定している時は、兄家族が住む家の離れに、実母と二人でひっそりと静かに暮らしていたのだが、最近実母が年老いて弱ってきた。

実母が、ワロさんの世話をできなくなると、ワロさんの色は、どんどん混乱してきていた。

奇妙な行動をとってしまうようになってきたのだ。

ワロさんは、本来なかなかの男前であり、細身で筋肉質の体だ。肌は浅黒く、スポーツ刈りがよく似合う。

安定しているときには、大人しく、穏やかで、優しい。

口数は少なく、何を聞いても

「いいに、いいに、大丈夫に」

と方言交じりに答える。

いいのか、大丈夫なのか、わからないので、ノマリはその返事を鵜呑みにはしない。

長年の、薬による治療の影響もあるが、普段は、小刻みにゆっくり歩き、両腕も、小刻みに震えている。

しかし、球技になると、かなり俊敏に動き、その時は、小刻みも震えもなくなる。

病院の催しで行われる卓球大会などでは、大活躍だ。そんなワロさんは、疎まれている自宅での扱いとは反対に、病院や通所の施設では、人気者だった。

ある日、ワロさんの兄が、怒った様子で、外来にやってきた。

「もう我慢できません! 近所のゴミをあさって、タバコの吸い殻を集めて吸ったり、孫娘の友達が遊びに来てるところに、上半身裸で現れて、わけのわからないことを言ったり」

兄は、カンカンに怒っている。

「でもワロさんは、病気だから仕方ないところもありますよね? 頼りにしているお母さんが弱ってきて、言葉では言い表せないけど、これからの不安もあるのでは?」

「じゃあ、あなたは、こんな恥ずかしい身内がいたらどうしますか? わかりますか、この世間への恥ずかしさが!」

兄は、まくし立てる。

ワロさんの家は、その地域では歴史のある名家なのだ。

「では、日中のデイケアという、患者さんが送迎付きで通ってくる場を利用するのはどうですか?」

「そんな車がうちに出入りするのは、まっぴらゴメンですよ!恥ずかしい!もう入院させてください!」

家族の苦労もよくわかる。恥ずかしいという気持ちは、ちょっと許し難いが、そんな風に思われて過ごすワロさんも辛いだろう。お母さんだって、どうしてあげることもできない無念さがあるかもしれない。

入院しかない。ワロさんを守るには仕方のない選択だ。

「わかりました。次、ワロさんが診察に来た時には、そのまま入院にしましょう。手続きなどはお願いいたします」

「もう二度と自宅には退院させないでくださいよ。母も高齢ですし、私も病気を患っていて、いつどうなるかわかりません。他の家族には迷惑かけられませんのでね」

なるほど、兄自身も不安だったのだ。これからのことが。そして、大事な自分の家族のことが。そういう事情なら仕方がない。

「ワロさんは入院を嫌がるだろうし、必要性を十分に理解できないので、私の判断とお兄さんの同意で保護入院の形を取ります。いいですね?」

「もちろんです。それでお願いします」

数日後、ワロさんが診察にやってきた。こういう時は、担当魔女医が、悪役を一手に引き受けることになる。

「ワロさん、なんだか今日は、すごく色が悪い。これは今すぐ入院しないと、ダメだわ」

「いいに、いいに、大丈夫に。お母さんもいるし」

「お母さんのことは、お兄さんにお願いするから大丈夫。ワロさんは早く良くなって、またお母さんと一緒に暮らしたいでしょう?」

「いいに、いいに、大丈夫に。入院なんかしなくても大丈夫に」

その押し問答がしばらく繰り返され、

「お兄さんも心配して、入院に同意してくれたし、はい、もう決めた、入院」

迎えの男性看護師さんが二人来ると、あっっさりと

「わかりました」

と素直に応じる。

毎回、こううまくはいかないが、体の色が混乱していると、相反する気持ちが同時に存在し、自分ではどっちつかずの判断になってしまうことがあるのだ。そういう時は、誰かがはっきりと方向性を示さないと、より混乱して色がグチャグチャになってしまう。

そうしてワロさんが入院して、三ヶ月ほどたち、だいぶ体の色は調和し、落ち着いてきたところの、今日の腹痛であったのだ。

ノマリは、ワロさんを診察し始めた。

「ワロさん、いつから痛いの?」

「イタタタ、イタタタ」

何を聞いても、表情は痛みで歪み、苦悶する。

ベッドの上で痛そうにうずくまり、立つことも、座ることもできない。 

「ちょっとお腹みせてね」

膨らんではいないが、全体的にかたい感じがする。

痛みで力が入っているのか、腹部の問題なのかはっきりしない。

元々の精神の不調、思考の不調で、症状をはっきり伝えることもできない。

看護師に尋ねる。

「嘔吐や下痢は?」

「それはないですが、今朝から食べれていません」

「便がずっと出てないとか?」

「昨日の午後排便が確認できています。昨日までは元気だったのに」

血液検査の結果を見てみると、特に異常なデータもない。

(なんだろう)

ノマリは、体を専門に診る医者ではないし、魔女病院では、ごく簡単な検査しかできない。

しかし、変なのだ。いつも、少々の痛みや具合の悪さでは、「いいに、いいに、大丈夫に」と言っているワロさんが、ありえないほど痛がっている。

精神の不調をきたしている患者は、感覚のバランスも失い、痛みを感じにくかったり、過度に感じやすかったりする。言葉で訴えることも難しく、状態が悪くなってから気づかれる場合も少なくない。

今の時点で大きい病院に頼むほど、全身状態や血液検査の数値は悪くない。けれど、普段の様子からして、こんなに痛がっているのはおかしい。何かあるはずだ。

(よし、あとで、どんな嫌味を言われてもいいから、これは、大きい病院の救急にお願いしよう。)

ノマリは意を決して

「全身状態とデータは異常ありませんが、この痛がり方は尋常じゃないから、救急に頼みましょう」

「わかりました。家族には?」

「急いで連絡を取って、私につなげてちょうだい。私は、救急に連絡します」

ノマリは、大病院の救急に電話した。出る医者によっては、魔女病院からの患者を、露骨に嫌がる医者もいる。精神の不調があると、検査や治療が、スムーズにいかないこともあるから煩わしいのだ。

報告する全身状態が、そこまで悪くないと、本当に救急が必要かどうか、追及される場合もある。

(どうか、理解のある医者が出ますように)

「はい救急です。どうしました?」

「魔女病院に入院中の患者ですが、六十代男性です。データと全身状態は今のところ問題ないのですが、とにかくものすごくお腹を痛がっているのです」

「はあ? ものすごくお腹が痛いだけ?」

「普段は滅多に痛がらないのですが、苦悶して転げ回るように痛がっているのです」

「じゃあ、急性腹症の可能性があるってことですね? レントゲンは?」

「魔女病院なので、撮れなくて」

「魔女病院はレントゲンも撮れないんですか?まるで野戦病院のようですね。まあいいでしょう。なんともなかったら、すぐ帰しますよ」

「ええ、もちろん」

「急性腹症の可能性であれば、医者と看護師が同乗するヘリを向かわせます。ただし、なんともなかったら、費用は患者の自費になりますので、ご了承ください」

「はい、仕方ないです。それでも、この痛がり方は尋常じゃないから心配ですので、よろしくお願いいたします」

なんとか、診てもらえることになった。最寄りのヘリポートまで行くための救急車を要請し、ワロさんの様子を気にしつつ、紹介状を書いていると、

「ノマリ、ワロさんの家族に誰も連絡がつきません」

「ええ? どうしよう」

家族に説明して同意を取らないと、処置や治療が進まない場合がある。特に、こういう精神に不調がある患者だと、本人に同意は取りにくいから尚更だ。

昔は、家族と疎遠な人は、院長や担当魔女医が代わって同意できたが、今は法律が厳しくなった。

「なんとか連絡を取れるよう、努力してみて。救急には、連絡つき次第、家族には行ってもらうと、説明します」

こういう時が、一番もどかしい。患者を大事に思っている家族なら、すぐ連絡が取れるが、疎遠だったり疎ましく思ってると、なかなか連絡が取れない。

救急車に乗って、ヘリポートまで行く道中、だんだんワロさんの血圧が下がってきた。

(大丈夫かな?)

経過と事情を説明し、救急専門の医者に引き継ぎ、ヘリに乗って、救急病院に向かって飛んで行った。

一安心とともに、ノマリが病院へ戻ると

「ノマリ、救急病院から電話です」

「え? もう?」

いつもは、念入りに検査して吟味されてから、入院かどうかの連絡が来るが、この日は違った。急いで電話に出ると、

「患者は、ヘリのなかで、ショック状態になりました。一命はとりとめていますが、おそらく胃に穴が空いていて、緊急手術が必要です。家族とはまだ連絡とれませんか?」

「それが、まだ取れなくて。全責任を私が取りますので、手術してもらえませんか?」

「いや、家族の同意じゃないとだめです」

(万事休すだ。これは一体なんのための法律なのだろう)

ノマリは悔しくなった。昨日まであんなに元気で、色も調和や美しさを徐々に取り戻してきていたところだったのに、と思う。

その時

「ノマリ、ワロさんのお兄さんから電話です!」

入院をお願いしにきた、あのお兄さんだ。

「お兄さん! ワロさんが、今、大病院の救急にいます。手術しないと命が助からないかもしれないので、急いで連絡してください」

「ええ? 今日、さっきまで自分の治療のために、その大病院に行ってきて、たった今、自宅に帰って来たばかりでした。それは大変だ。すぐに連絡します」

ワロさんのお兄さんは、七十代で、携帯電話などは持ち歩かないから連絡が取れないだけだった。心配している様子の声に、ノマリは一安心した。ワロさんのことを疎ましく思っていても、いざとなれば心配してくれた。どうでもいいのかな?と一瞬でも思い込みを持ったことに心の中で陳謝した。

その後、お兄さんの同意で手術が始まったと連絡があり、しばらく大病院に入院することになった。

(ワロさんが回復して、また魔女病院に戻って来ますように。あと、ワロさんが、奇妙な行動を取ったりして、治療を途中で投げ出されたりしませんように)

ノマリはそう願った。

「今日も一日忙しかったな」

ノマリは仕事が終わると、また車を運転して、海を見ながら、海岸線を帰る。

自宅の森の入り口まで、約一時間だ。

海を見ながら、いろんなことを考える。

今日一日の精神内界を振り返り、誰かに対する怒り、うまくいった安心、新たな心配、湧いてきた疑問、症状に対する解釈、トラブルに対する洞察、治療法のアイディア、など多岐にわたる。

しかし、自宅に戻るまでに、一旦すべて、広くて深い海に預けることにしている。

そして、次出勤するときに、海から返してもらう。

自宅は、個人に戻れる場所だから、思考も、感情も、なるべく持ち帰らないようにしているのだ。

ノマリは毎日、海に浄化してもらって、家路につく。

自宅に帰ると

「グルル、リニャー」

とピョエリが鳴いて出迎える。

部屋着に着替えると、しばらくソファーに寝転がって、ぼんやり過ごす。

つかさず、ピョエリがお腹に乗って、ゴロゴロ喉を鳴らす。

ノマリにとって、至福の時である。

それから、軽めの夕食をとる。穀物は取らない。スープと肉か魚と野菜の料理が基本だ。

ちなみに、ノマリはお酒は飲まない。いや、飲めないのだ。

もう体のなかのコードという遺伝子みたいなもので決められている。

お酒と仲良くできるコードもあれば、お酒が毒になるコードもあり、お酒が次から次へ欲しくなってしまうコードもある。

お酒との付き合い方次第で、色が不調になってしまう病気もある。

大体、その病気がひどくなると、体全体がグレーになる。

患者自身も、世のなかの見え方が、白黒グレーの世界になる。世界から色がなくなるのだ。

ノマリは、お酒と仲良くできない人生を嘆いたが、病気になるよりは良かったのかなと思ったりもする。それでも、お酒と適切に付き合い楽しめる人達を、時々うらやましく思う。

食事が終わったら、自宅の隣にある、石でできたドーム状の建物に行って、ピアノを弾く。自分で奏でる音楽から生まれてくる、様々な色の音の粒を浴びて、色を整える。誰でも出入りが自由にできる。ハーブティーを飲んだり、軽食をつまんだりしながら、他愛も無いもないおしゃべりをして過ごす。

音楽の力は、色を整えるのに結構効果がある。

もちろん、絵を描くのがいい人もいれば、スポーツをしたりするのがいい人もいる。

整え方は、人それぞれだ。

ノマリの日々は、この繰り返しだ。

動物と音楽と、そして患者さんを、こよなく愛し、無駄な贅沢はしないけど、美しく上質なものが好きで、それにお金は惜しまない。お金を貯め込むこともせず、ちょっぴり老後の心配をしながら、そして自分の人生に少し物足りなさを感じながら、静かに穏やかに日々過ごしている。

ある日、ノマリが出勤すると

「ノマリ、警察から電話です。レルさんのことみたいです」

「レルさん? 確か先週、外来に来たよね? 調子良くて元気そうだったけどな」

ノマリは嫌な予感がした。

警察から電話がかかってくるときは、事故か、事件か、自殺か、不審死だ。

レルさんは、五十代の女性で、若い時から、摂食障害とアルコール依存症で、内科の入院も繰り返し、体はガリガリにやせ細り、目だけギョロッとしている女性だった。生まれてすぐに両親が離婚し、姉は父に、レルさんは母に引き取られ、母親と二人で暮らしてきた。

母親が不憫に思い、過保護で過干渉気味に育てられたようだ。

母親は、レルさんから頼まれると、嫌々ながらもお酒を買ってきてしまう人だった。

そしてレルさんは連続飲酒になって、食事も摂らなくなり、せん妄のような症状が現れると、困って病院に相談に来るということを繰り返していた。

本人に入院の必要性を突きつけると、一週間チャンスをくれと言って、お酒をやめてみせるのだ。一度、連続飲酒に陥った人が、自力で断酒するのは、かなり難しいことだ。自分の意思が及ばないところがあるにも関わらず、レルさんはそれを毎回やってのけるので入院には至らなかった。

その後しばらくは、お酒をやめていい状態が保てる。

調子のいい時には、真面目に仕事に取り組むことができた。

レルさんは、持ち前のキュートさと、人なつっこさで、可愛がられ、喫茶店でアルバイトなどしながら、生活していた。

体の色は、明るくて可愛いオレンジのような色だけど、お酒の飲み過ぎと栄養不足で、くすんでいる。

とても、澄んでて明るい色なのに、もったいないなあと、ノマリは思っていた。

最近は、母親と心の距離が取れるようになり、生き別れた父や姉への思いなどを話せるようになって、色が鮮やかになりつつあるところであった。

「担当魔女医のノマリです。レルさんがどうかしましたか?」

「実は今朝、自宅のベッドで亡くなっていまして。母親が発見して通報がありました。外傷はなく、薬や毒を飲んだ様子もなく、事件性はないと思うのですが、念のため最近の様子をお聞きしたくて」

「先週、外来に来たときは、変わりなく、むしろお元気そうでした」

「一応病名と経過を教えていただけませんか? お母さんには病院に聞くことは了解とってます」

警察からの問い合わせには、ある程度応じないといけない。

そのかわり、こちらからもいくつか尋ねる。

「死因はなんでしょうか?」

「今調べているところですが、自殺ではないと思います。おそらく心臓発作でしょう」

ノマリは、最後の診察を思い出していた。

レルさんの生き別れた父は、数年前にレルさんを探し出して、アルバイト先に来てくれるようになっていたのだ。

帰り際にいつも千円札を無理やり手に握らせてくることを、初めて話してくれた。

「いらないっていうんだけど、いいからいいからって言って、手を握ってくるんだよね」

と、ちょっと恥ずかしそうに、でもなんだかうれしそうに話してくれた笑顔と、その時のなんとも言えない体の色の輝きと透明感をはっきりと思い出せた。

(レルさんが、次生まれるときは、お酒の飲めないコードだといいなあ)

ノマリはそう思いながら、心のなかで、レルさんに別れを告げた。

魔女医をしていると、患者の突然の死にショックを受けることもある。それには、自ら命を終えることも含まれる。

予測できて、対応することができる場合もあるのだが、突然のこともある。

結果的に起こってしまったことに対して、防げなかったのは、誰のせいでもなく、ましてや本人も悪くないのだが、苦悩のさなか、どういう心で死に向かっていったのかと思うと、いつもいたたまれなくなる。

しかし、どのような死に方をしたとしても、その人が懸命に生きて残していった美しい余韻は永遠だ。その残り香は忘れないようにしている。

外来が終わり、午後から病棟へ行くと、

「ノマリ、リラさんが、もうそろそろ」

「そうか。診察に行くね」

「そう言えば、昨日の夜に、息子さん来ましたよ」

「ええ? 本当? それは良かった」

リラさんは、六十代の女性で、長い間、夫からの暴力に苦しんでいた。

五年前に胃癌になって、胃を全摘してからは、体力も気力も落ち、いよいよ精神的に耐えられなくなって、体の色がおかしくなって、受診した。

リラさんは、色白で、目がぱっちりとした美人で、女性から見ても、女性として、とても魅力的だ。

弱々しさや、儚さが、一層その魅力を引き立てている。

本来の体の色は、綺麗な桃色だ。

しかし、ここを受診したときは、桃色に灰色の涙が流れ落ちるように、マーブル模様になっていた。

「夫が、お酒を飲んで、夜通し殺すとかなんとか言って、怒鳴るんです。団地で、近所迷惑だからと思って止めようとすると、叩かれるんです。そんなことがもう何年も続いて、眠れないし、動悸はするし、ゆううつだし、何もする気になれないし」

「それは大変だ! 命に関わることだから、早く逃げなさい。かくまってくれる施設があるよ」

「それが、何度かお願いはしたんですが」

「相談員に、問い合わせてみてもらうから。その問題が片付かないと、なかなか、よくならないよ」

相談員にお願いし、家庭内暴力を受けている人をかくまう施設に連絡を取った。

「ノマリ、聞いてみたのですが、リラさんは、すでに何回もそこに逃げ込んでます。しかし、数日もすると、やっぱり帰ると言って、夫の元へ戻ることを繰り返しているようです。施設は、離婚して、離れることをすすめているのですが、聞く耳を持たないらしくて」

「ええ? そんなひどい目にあっているのに?」

「施設は、離婚して離れる決断をしている人じゃないと、それ以上の支援はできないようなんです。だから、最近は相談があっても、どうせまた夫の元に戻るからと、受け入れてないとのことです」

「それで、余計に追い詰められて、色がおかしくなって、ここへ来たのか」

もう一度、診察室にリラさんを呼んで、ノマリはたずねる。

「リラさんは、施設に助けを求めて行ったんだね? けど、どうして離婚せずにまたご主人のところへ戻るの? 戻ったらまた暴力を受けるでしょう?」

「離婚して一人でやっていく自信はないし」

「お金のこと? 体の病気もあるから、仕事は無理できないし、行政からの保護支援を受ければ大丈夫だよ」

「主人は、仕事はやってくれるので、夜にお酒を飲んだ後の、暴言暴力さえ我慢すれば、あとは丸くおさまるんです。私が我慢できればいいんです。我慢できるように、心を整えてください」

「いくら整えても、その夫と暮らしている限り、またすぐ悪くなるよ。もしかして、まだご主人のこと好きなの?」

「はい」

「そんな暴力夫のどこがいいの?」

ノマリは独身だし、今のところ自分の人生に男を必要としてないので、そんな暴力を振るうような男と無理して一緒に暮らす意味がわからないのだ。

「実は、私たちは、不倫の末に駆け落ちして、今のところまで逃げてきました。世間から身を隠すように、ひっそり生活しているんです。もう十年ぐらい前になります」

「ええ?」

「お互い、家族があって、向こうは子どもが三人、私は五人いました」

「ええ!」

「けど、そんなことになり、当たり前ですが、どちらも縁を切られて、今や連絡先もわかりません」

「そんな!」

「だから、私はあの人を頼りに生きていくしかないんです」

「事情はよくわかったけど、じゃあリラさんは、今後どうしたいの?」

「主人の暴力がなくなってくれることを望みます」

「言えば変わってくれそうなご主人なの?」

「いえ、それは……」

「じゃあ一度私が話をしてみるから、受診についてきてもらって」

「いや、絶対に来ません!」

「じゃあ、もうここではどうすることもできないけど」

「せめて私を整える治療だけでもしてもらえませんか?」

「もちろん、それは引き受けます。心配だし、定期的に通ってきてください。あと、最寄りの警察には連絡しておきますので、命の危険を感じたらすぐ通報してください」

「実は、近所の人にも、恥ずかしいけど事情を話して、もしもの時は助けを求めると相談はしてあります。一軒だけ親身になってくれるところがあるので」

そこまでして、なぜその夫のところへ帰るのだろう。ノマリはますます不思議に思ったが、(今日の時点でできることには限界がある。まずはリラさんの治療に専念しよう。色が整ってきたら、冷静になって、リラさんも、違う考えになるかもしれない。)

その後、リラさんの夫も体調を崩し、入退院を繰り返すなかで仕事ができなくなり、保護支援を受けることになった。

リラさんはその時まで、なんとか耐えてきていたが、夫の暴言暴力は変わらず続いていた。

ある日の診察で

「ご主人の最近の様子はどう? 色も悪いんじゃない?」

「それが、ますますおかしいんですよね。前から誰かと話しているような様子はありましたけど、最近はさらに、何かに怯えているような」

「え? 前から誰かと話している様子があったの?」

「はい、誰かに向かって、殺すとかうるさいとか黙れとか」

「リラさんに向かって怒鳴ってるんじゃないの?」

「そういう時もありますけど、どちらかというと、一人でわけのわからないことをブツブツ言ったり、叫んでます」

「体の色は?」

「そういう時はごちゃごちゃです」

「お酒は」

「晩酌しかしません。そういうのが始まると、お酒が飲みたくなるようです」

ノマリは、これを聞いて初めて、夫の方が、重症かもしれないと思った。

その時はすでに行政の介入があったので、そちらから、夫の受診を促してもらうようにお願いした。

数日後、その夫が受診にやってきた。リラさんも一緒だ。

今までのことを責めたいところだが、今日は患者としてやってきている。

罪は罪としてなくならない。しかし、この夫にも苦痛や苦悩があるならば、それは取り除いてあげないといけない。

罪を裁くのは私の役目ではない。目の前にいる患者を癒してあげるのが役目なのだと、ノマリは自分に言い聞かせる。

「初めまして、リラさんを担当しているノマリです。ご主人の具合の心配は常々リラさんから聞いています」

「大変お世話になります。自分は大丈夫だと思っていたんですが」

想像と全然違って、穏やかだ。外面がいいだけなのか? 気が小さそうで、少しおどおどしている様子すらある。

「先に体の色を拝見しますね」

思った通り、ひどくはないが、混乱している。これは思考の障害があるだろう。

元の色は、キリッとしたかっこいい、濃い目のブルーだ。

「リラさんがいうには、夜になると、誰かと話している様子や、怒鳴ることがあるようですが、覚えてますか?」

「はい、覚えてます」

記憶はあるので意識の問題ではない。つまり、せん妄ではなさそうだ。

「なぜ?」

「親父の声が聞こえてくるんです」

「一緒に住んでる?」

「いやいや、もうとっくに死んでます。漁師で、気性が荒くて恐ろしい親父でした」

「そのお父さんの声が聞こえてくるんですか?」

「夕方になると始まります。私は、もう怖いんです。それでうるさいとか、あっちいけとか、殺すとか言って、追い払おうとするんですけど」

「それで、奥さんが怖い思いをしていることはわかってました?」

「わかってましたけど、どうにもできなくて」

リラさんが、口を挟む。

「あのぅ、仕事を辞めてからは、少しよくなってきました。手を挙げることはもうありません」

リラさんの夫は、仕事や生活はなんとかできていたが、若い時から、幻聴や不眠、妄想はあって、徐々に悪くなっていっていたのだ。

仕事のストレスもあったかもしれない。

「ご主人も治療が必要です。一緒に通院してきてください」

「親父の声がなくなりますか?」

「長年患った未の治療なので、どの程度薬が効くかわかりませんが、とにかく治療を始めましょう」

「わかりました。よろしくお願いします」

その後、幸い、薬がよく効いて、父親の声の幻聴もなくなり、夜もよく眠れるようになった。お酒を飲むこともなくなり、妻への暴言、暴力、威嚇もなくなった。

リラさんは、小さい不満はあるものの、暴力はなくなったので、安心し、やっぱり好きだからと、その後もその夫と一緒に居続けた。

しかし、取り戻した二人の平穏な日々もそう長くは続かなかった。

リラさんの胃癌が再発したのだ。

病院で治療をしたが、もう手の施しようがなく、徐々に体の色は混乱し、言動がまとまらなくなった。一般の病院では難しく、行政や夫とも話し合い、魔女病院に転院して、最後まで診る方針になった。

リラさんが、調子の良い時に呟く。

「もう一度子どもと会いたいなあ」

自分のしたことを思えば、その資格はないとわかっているのだろうが、死を意識して、そう思わずにはいられなかったのだろう。

ノマリは、夫が面会に来た時に聞いてみた。

「リラさんは、どの子どもとも連絡が取れないの?」

「長男だけは電話番号を知っているけど、私が電話しても出てくれないんです」

「留守電を残すことは?」

「さあ、それはやったことないけど」

「魔女病院の担当魔女医が話をしたがってるから、この番号に電話してとメッセージを入れてください」

「わかりました。ノマリ、どうか、リラのこと頼みます。もう私にはどうすることもできませんので。なるべく辛くないようにしてやってください。これが正しかったのかどうか、今となっては」

「まあ、でもリラさん、結局あなたから離れませんでしたからね。それが答えなんじゃないですか? 私にはさっぱりよくわかりませんけど」

「ありがとう、ノマリ」

DV問題って、こんな風に解決して丸く収まることも、ごく稀にあるんだな、とノマリは思った。

数日後、病棟の看護師が

「ノマリ、リラさんの息子と名乗る人から電話です」

「え? 良かった!」

急いで、電話に出る。

「魔女病院で、あなたのお母さんの担当魔女医をしているノマリと言います」

「どうも。で、何ですか?」

「あの、事情は色々お聞きしています。電話してきてもらって、ありがとうございます」

「別に」

予想通り、息子はぶっきらぼうだ。

「お母さんが胃癌を再発したことは聞いてましたかね?」

「胃癌ってことすら知りませんでした。まあどうでもよかったんで」

「で、もうあと一週間も生きれないかもしれません。今もう終末期医療で、点滴や酸素ぐらいしかしてません」

「そうですか。それで?」

「色々お気持ちはあると思うんですけど、お母さん、子どもさんに一目会いたがってて」

「そんな勝手な」

「そうですよね。お察しします。けど、何とか、面会に来てもらえないでしょうか?」

「あの男に会うのは嫌です」

「ご主人には、もし息子さんが面会に来たら、席を外すように念を押しておきます」

「こっちにも、仕事の都合があるので、行くかどうかはわかりませんけど、考えてみます」

「あの、お母さん、子どもさんたちのことは、忘れたことがないと言ってました。アルバムをいつも眺めていたと」

「勝手ですね。まあとにかく考えてみますから」

と言って、電話を切った。

(無理かもしれない)

ノマリは、あきらめ半分だった。

「リラさん、昨日息子さん来てくれたんだって?」

もうリラさんは、返事ができないが、かすかにうなづき、目の端に涙が溜まっている。

リラさんは、満足した表情に見えた。

「辛くない? 痛いところない?」

リラさんは、目を閉じて反応はない。呼吸はもう顎と肩でしている。

(もう、まもなくかもしれない)

病棟の詰め所に戻り、

「ご主人を呼びましょう。連絡してください」

間もなく夫が到着し、もう死を迎える時が近づいてきていることを告げた。それと、昨日、息子さんが面会に来たことも。

「ノマリありがとう。せめて、会えてよかった」

夫が、リラさんに近づき、手を握ると、一瞬、リラさんの体が、ブワーッと綺麗な桃色になり、みずみずしく、艶やかに輝いた。そうかと思ったら、急に色が薄くなって、呼吸が止まり、脈も止まり、すっと透明になった。

「リラさん?」

もう返事はなく、呼吸も、心臓も止まり、体すべてが死を示し始めた。

静かに、苦しまずに、その生命を終えて、透明に戻ったのだった。

「ご主人、気をおとさないでね。ちゃんと通院は続けてくださいよ、心配だから」

「はい……。リラがお世話になりました」

夫は、ゆっくりと頭を下げた。

死に寄り添うのも、魔女医の役目なのである。

難しい手術をしたり、最先端医療を研究したり、新しい薬を開発したり、というのも大事な医療だが、こうやって、死にゆく人に寄り添い、不安や苦痛を取り除いてあげるのも、医者や魔女医の大事な役割だと、ノマリは感じている。

最近は、高齢の患者も増えている。外来には、単なる物忘れだけでなく、様々な精神の不調でチグハグな行動をしてしまう認知症の患者さんも相談に来る。

ある日の診察室で

「モメさん、色が悪いし、心配ですから入院しましょう」

「嫌です」

「入院したら、ご飯は三食出るし、お風呂に入るのも手伝うし、万が一おしもの失敗をしても手伝うし、清潔な寝床で毎晩眠れますよ」

「それなら……少しだけなら」

そばに付き添っていた娘と行政の支援者たちは、ほっと安堵の表情をした。

介護支援を担当しているケアマネの中年男性だけが、むすっと不満そうにしている。

「人間の尊厳って、何ですかね?」

と捨て台詞を吐く。

診察室を出ると、病院の相談員に向かって

「あの家族は、厄介ですよ。文句ばっかり言ってきますから。これから大変ですね」

と言い残し、怒りながら帰っていった。

この入院が決まるまでの道のりは、結構長かった。

これ以上ほっておくと、モメさんの命が危なかったかもしれない。

モメさんは、九十代女性で、体の色は、渋い紫色をしている。

最初は、娘だけが相談に来た。

モメさんは、一七歳の時から、一七人子どもを産んでいて、相談に来た娘は、末娘だった。

夫と二人で、行商と農業をし、貧困にあえぎながらも、何とか一七人の子どもを育ててきた。

それだけで、すごいことだ。

モメさんは、山奥の古い家で、夫が亡くなったあとは、下から二番目の娘と二人暮しをしていた。

モメさんは、数年前から物忘れが進行し、認知症の診断を受けていた。

介護サービスを受けて自宅で生活していたのだが、進行すると、不眠や幻覚、妄想などが目立つようになってきた。

物忘れと能力低下だけなら介護でカバーできるが、精神症状が出ると、なかなか対応が難しいものだ。

介護支援は手厚くしていたのだが、ここ一年ぐらいで、体の色がどんどん、混乱で、くすんできた。

夜通しわめきながら、家中のものをゴソゴソとかまい、便に失敗したら、それをどうしていいかわからず、壁に塗りつけていた。家の中には糞尿まみれの悪臭が立ち込めている。夜中に家を出て行こうとすることもあり、二十四時間見守ってないと、危ない状態であった。

同居していた娘は、難病で思うように体が動かなかった。介護支援を担当しているケアマネに相談しても、特に対応はなかった。ケンカが絶えず、ある日、娘はその自宅を黙って出て行ってしまった。限界だったのであろう。誰もその行動を責めることはできない。事件にならなかっただけでも良かったと思う。

モメさんは自宅に一人になり、末娘が度々様子は見にいったが、行くたびに、部屋のなかはめちゃくちゃになっていた。尿の失敗や、便の失敗が放置されていた。大変な思いをして、片付けて車で帰ろうとすると、モメさんが泣きながら「置いていかないで」とすがりついてきて、毎回振り切って帰るのに、疲労困憊していた。

「もう限界なんです。入院はさせてもらえないでしょうか?」

「もちろん、それは大変すぎるので、入院にしましょう。いつ連れて来れますか?」

「けれど、ケアマネさんが、入院はダメって言うんです」

「え?ケアマネさんが?何の権限で?じゃあ、介護のほうで、一日中様子が見れるところへ入所の手配ができるのかな?」

「いや。週三泊のショートステイが限界だと言います」

「じゃあ後の四日はどうしろと?」

「子どもが一七人もいるんだから、誰かがみれるだろうと言うのですが」

末娘はうつむきながら続ける。

「一番上はもう八十代ですし、あとは、ほとんど亡くなったり、病気や認知症で入院や施設に入所していたりで誰にも頼めません。すぐ上の姉は家を出ていったし、もう私しかいないのです。でも私も、最近うつ状態で入院して退院したばかりで、気力がついていかないんです。しかも、二間のアパートに、育ち盛りの子供も三人いますし、引き取れないんです」

と言って、ポロポロと泣き出してしまう。

「大変だ。子どもが一七人いようがいまいが、今現在、全面的にみれる人がいないなら、施設入所か、すぐには無理ならとりあえず入院しかないでしょ?」

「ありがとうございます。けど、ケアマネさんが怖くて」

「一緒に来てもらったら、私が説明します。言いにくいなら、行政の健康福祉課の保健師や、保健所の保健師にも説明して、助言してもらいましょう」

その後、病棟と都合を合わせ、入院の日時を段取りして、今日を迎えたのであった。

モメさんは、入院後は安心したのか、まったく穏やかに過ごしている。

不眠も、幻覚も、大声も、興奮も、徘徊も、不潔行為も、ほとんど目立たない。

それどころか、看護師や助手に対しいちいち丁寧に、お礼を言う。

末娘さんをはじめとした、家族も、世話になっていることに深く感謝し、面会に来るたびに、お礼を言って帰る。

モメさんは、自分の能力の低下を感じて、一人暮らしが、不安だったのであろう。認知症と言っても、何もかもがわからないわけではないのだ。

入院してからは、色のくすみは消え、綺麗な渋い紫色に戻っている。

ただ、薄くはなってきている。それもそのはずだ、もう九十年以上生きているのだから。

捨て台詞を吐いて去っていった、中年男性のケアマネは、一体何を持って、人間の尊厳と言っていたのだろうか?

モメさんの家族の何が一体厄介だったのだろうか? 

一番厄介だったのは、そのケアマネだったのではないだろうか? 

モメさんは問題行動はなくなったが、物忘れの進行と、身体機能の低下で、介護が中心となった。申し込んでいた施設に入所し、その後も穏やかに過ごしていると連絡があり、ノマリはホッとした。

都会に出た子どもが、久しぶりに田舎に住んでる親元を訪ね、家のなかがめちゃくちゃになっており、ショックを受けると言う出来事はしばしばある。

しかし、子どもにも、生活や人生があり、それらをすべて投げ捨てて、親元に戻り面倒をみるというのも現実には無理だ。親は大切にしないといけないのはわかるが、子供世代の人生を犠牲にしてまで強いるのは酷であろう。

そもそも、子どもがいない人もいるわけだが、何らかの血縁に責任が及ぶ仕組みになっている。その場合も同じことだ。

結局は施設入所に頼ることになる。空きがあってスムーズに入れればいいが、なかなかそうはいかない。経済的な事情で難しい場合もある。

また、色が悪くて突飛な行動を取ってしまうようなことがあると、施設入所もできない。

じゃあ、一体どうすればいいのだ? と途方にくれる。

そこで役に立つのが魔女病院だ。

自宅と施設のつなぎの役目だ。色を整える治療をしながら、施設に入れるよう考えていく。

それには焦った治療は向かない。人それぞれ、整うペースも違うし、能力低下の進行度も違うからだ。

その人それぞれのタイミングで、施設に入所できればいいし、結果的に最後まで魔女病院で過ごす患者もいる。

それでいいのだ。

時々問題になるのは、病院や、魔女病院や、施設に入って、面倒をみてもらうのが当たり前という家族や関係者の考え方だ。普段面倒を見ていない、疎遠な親戚ほど、文句を言ってくることがある。

「こんな何にもないところで、かわいそう」

「じゃあどうぞ、あなたが連れて帰っていいように面倒見てあげてください」

「いや、」それは、ちょっと。どうしてお嫁さんはみれないのかしら」

「それを知るためにも、ぜひしばらくお宅に連れて帰って、みて差し上げてください」

「いや、それはちょっと……」

という会話が時々繰り広げられると、ノマリはうんざりしてしまう。

しかし、それも根気強く説明し、誰もが安心できるよう努力している。

ある日出勤すると、訪問看護師の一人が、あの五十代男性のンヲさんのことで報告してきた。

「ノマリ、今日聞いた話なのですが」

「うん?どうした?」

「どうも、職場の上司が、ンヲさんに性的なイタズラをするようです」

「え? だって、ンヲさんも結構なおじさんでしょ?あ、失礼!」

「そうなんですが、けっこう上の立場の、管理職の上司みたいで、ンヲさん断れなくて。ご両親が亡くなってから、二、三年続いているみたいです」

ちょうど、ンヲさんが不眠やゆううつで、体の色も変になり、ここに通い始めたころ。つまり、ほどなくして笑顔で「死にたい」と言うようになったころだ。

(まさか、おじさんが、性的嫌がらせを受けているとは、想像もできなかったな。けどあのドス黒さは、それによるものかもしれない。真実だとしたら早急に対処しないと、ンヲさんはどんどんドス黒くなって、自分の色を忘れてしまう)

次に、ンヲさんが診察に来た時に、ノマリは尋ねてみた。

「訪問看護師さんから聞いたよ。勇気を出してよく話してくれたね。ありがとう」

「いやあ、自分みたいなのが、こんなこと話しても、どうかなあ、信じてもらえるかなと思って。言うつもりはなかったけど、訪問看護師さんとお茶飲みながら世間話していたら、つい」

「いやいや、よく勇気を出して話してくれましたよ。逆に、今まで気付いてあげられなくてごめんね」

ノマリは、そこまで大袈裟にし過ぎず、でも深刻さを持って、話を進める。

「ところで、ンヲさんは、その男性上司からの性的なイタズラが、嫌だし辛いんだよね?」

「はい。その人は自分より五歳ぐらい年上なんですが、自慰行為を手伝わされて。惨めな気持ちになります。でも、終わったら、お小遣いをくれるので、結局それを受け取ってしまうんです」

「その人は、ンヲさんに恋愛感情があるのかしら? もしくは恋愛関係ではないのかな?」

「いや全然感じませんし、そういう関係ではありません。ただその行為をするだけです」

「じゃあ、どうしてンヲさんに、そんなことをするのかしら?」

「奥さんとうまくいってないみたいで、そのストレス発散なんじゃないですかね?」

ノマリは、恋愛関係でないこと、少なくともンヲさんには恋愛感情がないことを確認できた上で聞いてみた。

「これからどうしたい?」

「こんなことやめたいです。今までもずっとつらくて、それで死にたかったんです」

「その人を訴える気は?」

「いやそんなことまでは」

「じゃあ、これからのことを考えよう。仕事もやめてもいいし、自宅も引っ越してもいい。一緒に考えていこうね」

「よろしくお願いします」

性的な苦痛は、人間の魂をえぐる。

本来は性的なエネルギーは尊いエネルギーだ。

人間にとって、生きる欲求となり、神聖なエネルギー源である。

そこが害されると、死ぬより辛いことになったりする。

だからこそ、その歪んだ威力が間違った方向に向くと、誰かをものすごく苦しめる。与えている本人もどこかで何かに苦しんでいる。だからと言って、結果的に生じる行為が許されるわけではない。

本来は、子ども、若い人、女性などの、弱い立場の人に、向けられやすい。

だから、今回のことは、ノマリにとっても、盲点であった。

その後、ンヲさんは、支援を利用しながら、新しい住居と職を見つけて、新しい生活を始めた。

ドス黒い部分は徐々に消え、よどみもなくなっていった。

ぎこちない笑顔で「死にたいです」と言うこともなくなった。

そのあとは、生き生きと、心地よい色合いで、自然な笑顔で、暮らしている。

こういうことがあると、いつもノマリは、加害者の色は大丈夫だろうか? と心配になる。

もちろん、罪は罪だが、余計なお節介で、その人のその後の人生が心配になる。

放っておいて、次の犠牲者が出ないかどうかも不安だ。

しかし、ノマリにできることはこれが精一杯だ。

目の前の患者の苦痛や苦悩を癒し、色を整えることが自分の使命なのである。

考えるとキリがないし、自分一人にできることは限界があるとはわかっているのだが、時に無力さを感じる。

(なんでもできると思ったら大間違い。自信と傲慢さを、履き違えないこと。ヒーロー気取りに酔ってるんじゃないわよ!)

と、自分を戒める。

(魔力って結局、何なんだろう?)

ノマリは帰り道、海を眺めながら、時々こう思う。

(何か一つの治療法や概念に偏ることなく、その状態、状況に合わせて、その時必要な、最適な何かを施す、そういう直感やセンスなのかもしれないな)

と思い始めている。

綺麗言とわかっていても、

(世の中全体が美しくなっていくためには、一人一人が美しくなってもらわないと困るのよ)

と、ノマリは時々そんなことを傲慢に思ってしまう。

(お金を無駄にかけて、着飾るのと、真の美しさは違う。誰でも、どんな人でも、美しくなる力を持っているのだから。私はそれを引き出すきっかけのお手伝いを、ほんの少ししているのだろうな)

そうやって必死に自分がやっていることの意義を時々確認したくなるのだ。

魔女医 第三章 ノマリの祈り

ノマリはこんな日々を過ごしながら、人が長い人生のなかで、一度や二度色が悪くなるのも悪くないと思っている。

そのあとの色が一段と美しく輝くからだ。

自分のダークサイドと向き合わず、放置している人の色の方がよっぽど美しくない。

だから、ノマリは、色がおかしくなった人には、むしろ「おめでとう」と言いたいぐらいだ。

本当の人生を始める準備が整った証拠だからだ。

しかし、それも色が混乱したままでは、進まない。

まして、それを人のせいばかりにしていても、自分の内面の作業は進まない。

堂々巡りが続くだけだ。

そのループからいかに抜け出すか。

一度追い込まれないと、気付かないものだ。

追い込まれても、気付けない人もいる。

混乱を抜けて、衣食住がある程度満たされ、安心して穏やかに過ごせるようになると、自分の再創造に向けてエネルギーが回復していくものなのだ。

その時のエネルギーこそが、美しいものを生み出すのだ。

よりその人らしい、深みのある色になっていく。

偽物でない、本物の色。

それを、手に入れるために、人は生きていく。

この、人間の内面において行われる作業は、どんなに人が進化して、優れた技術を生み出したとしても、機械に行えることではないだろう。

人との関わり合いでしか、内面の変化は起こりえない。

人工知能というものが発達して、ほとんど人間と同じロボットができたとしても、内面の変化を促す共同作業を、代わりにできるだろうか? 

体だけの診断や治療は、人工知能に代われるかもしれない。

けれど、色は、科学や論理だけでは解決しえない、繊細で複雑なものなのだ。

その人一人一人を決定づけている、遺伝子のようなコードを操作しても無理だろう。

生物学的な、能力を超えたところに、色を変えていくパワーが存在するのだ。

それは一人では生み出せない。人と人との有機的な心の交流によりなされていく。

最近は、このコードに手を出すような治療も、開発されてきている。

病気に苦しんでいる人が助かるのは、良いと思うのだが、行き過ぎたらどうなるか、ノマリは心配している。

もしコードの書き換えを色が美しくない人の手に委ねられたら、と思うとゾッとするのだ。

ノマリは、得体の知れない不安をピョエリに語りかける。

「ねえ、ピョエリ、このままみんながコードをどんどんいじるようになったら、人はどうなってしまうかしら?」

ピョエリは、うっとり顔で、ただ喉を鳴らすだけだ。

「私は、色はどんどんおかしくなってしまうんじゃないかと思うの」

ピョエリは相変わらず知らん顔だ。

「今の世の中全体の、風潮や考え方が、逆に一人一人のコードに影響を与えて、洗脳されて、ゆっくり変異を起こしていくことも心配しているわ」

ピョエリは、パッと目を見開く。

「昔タブーだったことが、今は当たり前になっているようにね。それで良くなることもあるとは思うんだけど、コードだけは手を出してはいけない気がするの」

ピョエリはまたうっとり顔に戻って喉を鳴らす。

ノマリは、研究者ではないし、実際コードの研究がどこまで進んでいるかもわからない。だが学生時代に少しは学んだ。その時は、人間のなかに、あんなに美しい世界があったとは、と感動したものだ。

と同時に「これを操作できるようになれば、人間を自由自在に操れる」とも思った。

美しいと思っていたものが、何かを傷付ける凶器になるとわかった瞬間、醜いものに変わる。

ノマリは、興味がありながらも。怖くなって、その研究のために、罪のない無垢な命が、平気で奪われるという可能性を思い、その好奇心には蓋をした。

けれど、ノマリは、自分は何も批判する立場にはないと感じている。

みんな、誰かを救うために、必死なのだから。

ノマリは、いつか、コードを操作するのが、当たり前の世のなかになって、色は置き去りにされてしまうのが不安だ。醜い色の世のなかになって、その色が人間の内部に影響を及ぼして、コードにまで伝わって変異を起こして、人間がどんどん醜くなっていく、という想像をついついしてしまう。

「ああ、やだな。醜くなっていくのは。みんな、誰でも、美しい姿と色でいてほしい。その人の持つその人の美しさで輝いて、世の中と調和して欲しい」

ノマリは、余計なお節介だと思いながらも、そんなことばかり考えていた。

そんなことを考えてばかりいると、音楽を奏でたくなるのだ。

自分のモヤモヤした考えを浄化したい。

音の色と粒で、自分の色を整えたい。

しかし、どういう仕組みで、そうなるのか?

音には、振動やエネルギーがあるので、きっとそれが、何かしら、脳の電気活動に作用しているのかもしれない。

そんな仮説を立てているが、実証しようがない。

その目に見えない力を、無理して科学的に証明する必要もあるのだろうかと疑問に思う。

科学的に解明しようとした時点で、その力の本質が歪められてしまうのではないか?

だから、ノマリは効果があると思っても、医療魔法省には届け出をしないし、学会で発表もしない。

独り占めしておくつもりはないのだが、面白くないことに変えられてしまうような気がするのだ。

そんなノマリを、バカにしたり、快く思っていない魔女医や医者はいるだろう。

けれど、ノマリは気にしない。

自己保身と虚栄心がそうさせるのであろうか。

心の重症な患者は、より本能的な防衛能力が冴えるのか、カンが非常に鋭くなる。

自己保身や、虚栄心の強い人間をすぐに見抜いて、敵意をあらわにすることがある。

そういう時には、その人の地位や肩書きなど、まったく関係ないのだ。

その人の人間性だけを、本能で鋭く捉えている。

自分に害を与える人間か、そうでないかを、瞬時に判断する。

ノマリは、魔女医として、闇のなかから光をたくさん見つけてきた。

いや、むしろ、そもそも闇だから、光を見つけやすかった。

闇のなかに光を見つけたときの、安堵感といったら、なんとも言えない満ち足りた気分だ。

そう考えると、社会の闇はそんなに悪いものでもないし、そこに立ち向かう勇気さえあれば、むしろ輝くチャンスになる、と感じている。

(これからも、相談に来た患者さんの、ダークサイドに果敢に挑み続けよう。一緒に光を見つけて、本来の色と美しさを取り戻す勇気を与えられるように努力していこう)

最終的には、いつもノマリはこの結論に至るのであった。

魔女医 第四章 しのび寄る悪意

医療魔法省の一室にて。

「あの、海の見える魔女病院では、一体どんな治療法が行われているんだ?」

高官の一人が尋ねる。

「どうやら、ヒトマ=ノマリという魔女医が、変な魔力を使って、患者たちを治療しているようですよ」

と管轄の局長が答える。

「何も報告がないではないか」

「ヒトマ=ノマリは、報告を怠っています」

「なぜだ?」

「あの魔女医は、魔女医の資格以外に何も持っていません。学位も、専門医も。学会で発表もしていません」

「怠け者の魔女医なのだな」

「患者からの評判はまあまあいいようですがね」

「でも、変ではないか。学位も、専門医も持たない魔女医が、そんないい治療をできるはずがない」

「知り合いの医者や魔女医から聞いた噂ですが」

「なんだ?」

「もしかしたら、魔力でコードを操作して、患者たちを洗脳しているんじゃないかという噂です」

「コードだと?」

「はい」

「そんなはずがない! 最先端の医療の発達で、やっとコードを操作できるようになるかもしれないというのに、魔力ごときで、コードが操作できるのか?」

「なので、それは単なる噂レベルです」

「もし本当だとすると、裁判にかけるべき事案だぞ」

「しかし、それを裏付ける証拠は何もありません」

「いや待てよ、本当にそれが裏付けられると、我々の管轄の科学研究者たちが、面目立たないことになる」

「もし本当なら、コードの操作について、魔女医に先を越されたことになりますぞ」

この二人は、自分たちの支配する領域での、権威と、自己保身と、見栄やちっぽけなプライドしか考えてないようだ。

そうなるのも、仕方がないところはある。この二人は、医者でありながらも、患者を診たことがないのだから。

しかし、医療の秩序と法を守ることは一生懸命やっている。

時々、何を必死に守っているのか、よくわからなくなることもあるようだが。

患者を守りたいのか、人々の健康を守りたいのか、それとも医者や魔女医を守りたいのか、自分たちをまもりたいのか。

要は、みんな守れればそれでいいのだが、患者や人々の健康を守ることが、後回しに感じられることもある。

「ヒトマ=ノマリが、コードを操作して、患者を治療しているという噂を流すのはどうだ。科学的に裏付けできないインチキだと証明し、コード操作を悪用しようとした人類を脅かす者として、死刑にするのはどうでしょうか?」

「極端な考えだな。しかし、それなら、ノマリが本当にコード操作に成功して患者を治療していたとしても、それを封じることができるし、もし事実じゃなかったとしても、操作コードを試みる管轄外の研究者たちに見せしめにもなる」

「この噂を、利用しない手はないですぞ」

ノマリが、煩雑な報告や、資格取得を怠り、学術的なことをやってこなかった、ツケがここに回ってきてしまった。

長いものには巻かれない主義を貫いてきた、ノマリへのしっぺ返しなのだろうか。

ノマリ自身が、これまで磨いてきた人間力が、試される時なのであろう。

「早速、海の見える魔女病院へ、調査に向かわせよう」

「ヒトマ=ノマリはどうします?」

「直ちに業務停止を言い渡し、調査で疑わしい証拠や情報が一つでもあれば、逮捕状を取って、拘束しよう」

「わかりました。では、早速に」

ノマリはいつものように、患者さんの診療をしていた。

そこへ、突然、役人と警察がやってきた。

あの管轄の局長もいる。

「魔女医ヒトマ=ノマリ、あなたには、コード操作を悪用して患者たちを洗脳して治療している嫌疑がかかっています。今から、魔女医としての業務を停止することを命令します」

「私が、コード操作を悪用? どうやってですか? どうやって悪用するのですか? やり方すらわからないのに?」

「あなたは、効果のある治療法を報告してないし、学会で発表などもしていない。専門医も学位も持っていない」

「それは完全に私が怠けているからです。書類や、点数集めや、出張が面倒くさくて」

「それで済まされる話ではありません。ですが、あなたは患者を、それなりにうまく治療しています。何か怪しい魔力を使っていると、もっぱらの噂ですぞ」

「噂は、勝手に垂れ流してもらって結構ですが、証拠はあるんですか?」

「それを今から調査します。調査で潔白が証明されるまでは、業務を停止して、警察署に勾留します」

「ええ? まだ今日も明日も診察しないといけない患者はたくさんいるんですよ。急に言われても困ります」

「医療魔法省からの命令なので、逆らえません」

「じゃあ、患者さんはどうしたらいいんですか?」

「他の魔女医に任せたらいいでしょ?」

「こんなに急じゃ、引き継ぎも、紹介状も、サマリーも準備できません。代診する魔女医も、患者も困るでしょう?」

「そんなことは、私の知ったことではありませんから」

「あなたは、医者のくせに患者を診たことがないから、そう言えるんでしょ?」

「けしからん暴言ですね。侮辱罪も問われることになりますよ」

「事実を言っただけですが、侮辱されたお気持ちになったのですね? つまり心当たりがあるからじゃないですか?」

「この、憎たらしい女が」

「それも、暴言じゃないですか?」

「とにかく、これからすぐに勾留だ! 有無は言わせない。すぐに来るんだ。さあ警察隊、この魔女医を拘束するんだ」

ノマリは、これはもう自分一人の力では抵抗しても無理だな、と覚悟を決めた。

ただ、残していく、患者さんたちのことを思うと、心苦しい。

最後に私ができることはなんだろうか?

「せめて、カルテを持っていって、引き継ぎや紹介状を書かせてもらえないでしょうか?」

「ダメだ。カルテは全部調べるから、持っていかせえるわけにはいかない」

ノマリは、大事な局面にいる何人かの患者の顔を思い浮かべた。安定している患者や、まだ治療を始めたばかりの患者なら、何もなしで引き継いでも大丈夫かもしれない。

しかし、今、ケアが必要で、ここをどう乗り切るかが勝負と感じている患者を、中途半端な状態で丸投げすることに心が痛んだ。

(自分が怠ってきたことへの、しっぺ返しは仕方がない。自分でけじめをつけないといけないことはわかっている。でもこういう形で、患者さんに迷惑をかけることになるとは。もっとちゃんとしておけばよかったな)

心の中で反省しながら、もうどうしようもないのだと、腹をくくった。

「わかりました。最後に院長と話をさせてください。これから迷惑をかけることになると思いますから」

「よかろう。ただし、我々の立会いの下だぞ」

院長は、騒ぎを聞きつけて、そばまで来ていた。

「ああ、院長。申し訳ありません。このようなことになってしまって」

「ノマリがそんなことするはずがない! なんなんですか? あなた方は?」

「下手にかばうと、あなたにも嫌疑が向きますよ」

「なにを!」

院長は、怒りを抑えきれず、老体に鞭打って、掴みかかっていきそうな勢いだ。

「院長、こらえてください」

「でも、ノマリ!」

「院長まで拘束されたら、この魔女病院は一体どうなるんですか。患者さんたちのことよろしくお願いいたします」

「それは心配ない。他の魔女医と分担するから」

「それを聞いて安心しました。私が、怠けていた報いなのです。自分の問題として向き合わないといけません。ご迷惑かけて、本当に申し訳ありません」

「わしは、信じているよ。そんな邪悪な魔力で、患者が真に救われるはずない。きっと潔白が証明される。心配ないぞ、ノマリ」

「ありがとうございます」

そうして、ノマリは警察に拘束され、警察署で勾留されることになった。

第五章 魔女医裁判

それから、二週間が経った。

海の見える魔女病院は徹底的に調査されたが、ノマリがコード操作をしていることを裏付けるような証拠はなにも見つからなかった。

高官たちは、コード操作の研究が、ノマリに先を越されたわけではないことに、ホッとした。

しかし、ならばどうやって、ノマリは患者を治療しているんだ? 

色を良くするために、コード操作でなくして、どんな魔力を使っているのかますます不思議に思った。

だが、何よりも、高官たちは、今後ノマリをどう利用すれば、自分たちに有利になるか、考え始めた。

高官になれるぐらいだから、頭は切れるのである。

その頭脳を、どういう方向に使うかは、その人物の人格次第だ。

自己都合だけの、狭い世界に使うのか、広く、多くの人を救うために、惜しみなく使うのか。

そうして、この高官は、とりあえず、ノマリを、魔女医裁判にかけることにした。

物質的な証拠はないが、状況証拠として、いくつか事実を上げることはできる。

もしくは、何か無理難題を与えて、コード操作でない方法で、色を取り戻すことができるのか、実践させてみるのも一案だ。

うまくいかなかったら、死刑でもいいかもしれない。

そうしたら、怠け者の医者や、魔女医が真面目になるだろう。

高官たちは、そういうシナリオを考えた。

ノマリの裁判の日がやってきた。

「えー、これから、ヒトマ=ノマリの、魔女医裁判を開廷する」

ノマリが、入ってきた。

警察署では、いつもの儀式やヘアメイクができないから少し迫力に欠けるが、表情は、毅然としている。

「あなたは、コード操作を悪用しようとして、色々な魔力を試し、報告せずに、隠そうとしましたか?」

「色々な魔力を試したのは間違いないですが、私は、前々から、コード操作の研究には反対でした」

「自分が利用したいことを隠すためのカモフラージュだったのではないですか?」

「そう考えるのは勝手ですが、私は、コード操作で、仮に色が戻ったとしても、自分の内面の作業を伴わない方法では、意味がないと思ってます」

「ほう、それはなぜですか?」

「他人から、無理やり変えられたところで、真の満足感は得られないからです」

「異議あり!」

「検事側、どうぞ」

「現在、医療魔法省の研究が進み、コード操作による、治療の有用性は証明されつつあります。個人的な、裏付けのない見解を、断定的に述べるのは、その研究に対する侮辱に当たります」

「被告人は、言葉を慎むように」

「侮辱したつもりはないですが、そう感じられたなら、失礼いたしました」

「調査の結果、物質的な証拠は見つかりませんでした。しかし、あなたがコード操作を悪用したかどうかの嫌疑はまだはれません」

「はい。ではどうしたら良いのでしょうか? 早く、患者さんの治療に戻りたいです」

「その望みを叶えてあげましょう。これから、非常に色が悪くて、誰も色を治せない患者の治療にあたってもらいます。ただし、コード操作をしないかどうか、絶えず見張りをつけます。最終的に、コード操作でない治療法で、その患者の色を取り戻せたなら、あなたの嫌疑ははれるでしょう。ただし、うまくいかなかった時には、何かインチキを働いていたということになるので、死刑になります」

「ええ? いきなり死刑ですか?」

「治療にインチキを使った罪は重いです」

「仮に私がインチキを使っていたとして、結果的に色が良くなった患者はいっぱいいるので、いいじゃないですか?」

「ダメです」

「なぜですか?」

ノマリは命ごいをする気はなかったが、悪意が感じられる判決であり、もし死刑になったら、他の魔女医たちが、これからどんどん縮こまって、試したい魔力も試せなくなるのではないかと、懸念した。

「結果が良くても、裏付けがないと認められません。それに魔女医は、怪しいことをしたら、古来よりすぐに死刑になるもの。いまさら何を文句を言っているのですか?それを覚悟で魔女医になったのでしょう?」

「ですが、科学的に証明できなかったり、言葉では説明できない感覚的なこともあります」

「それでは、みんなにわかりにくいです」

「みんなって誰ですか? あなたの周りの人だけですか? 頭のかたい人の集まりですか?」

「また侮辱しますか?」

「侮辱に感じるなら、図星なんでしょうね?」

「その手には乗りませんよ。この条件を飲めないのなら、即死刑です。どうしますか? 挑戦しますか?」

ノマリは、もう自分のことはどうでも良かったが、誰が治療しても治らない色の悪い患者のことを思い、さぞかし辛いだろうと考えた。

(人生最後の仕事になるかな)

そう思い、覚悟を決めた。

「わかりました。その挑戦をします」

「そうですか」

「ただし、病気の重症度にもよりますよね? どこまで色を戻せたらいいんですか? 完全にでしょうか?」

「まあ、安心してください。魔女病院に入院を要するような、重症な患者ではありません。患者は、自宅にいます。というより、自宅から出ていません」

「はあ」

「引きこもりの患者です」

「なるほど」

「三十三歳の男性で、中学生から不登校になり、その後引きこもりになってますので、もう二十年近く自宅から出ていないようです」

「病院を受診したことは?」

「ありません。臓器を含む肉体、は今のところ問題はないようです。実質、母親と二人暮らしで、母親が世話をしています。母親によると、最近は部屋からも出てこず、ちらっと見える色は相当悪いようですよ」

「なぜその方を?」

「それ以上のことは詮索できません」

「本人はこの挑戦のことを知っているんですか?」

「訪問で相談にのるということだけ伝えます。きっとなかなか会えないと思いますよ。親とでさえ会おうとしないのですから」

「母親には?」

「この挑戦のことは、誰にも伝えません。知っているのは、あなたを見張るために派遣するスタッフだけです」

「私の選んだスタッフを付き添わせることはできないんですか?」

「ダメです」

「わかりました。期限は?」

「一年にしましょう。そう簡単ではないはずですから。それまでに、色を戻して、本人自ら、自宅を出て外出することができたら、挑戦は成功です。あなたは死刑を免れます」

「一年ですか。決して長くはないですね。色を取り戻すのに、十年かかる人もいますから」

「あきらめますか?」

「いえ、一年間だけでもできることはあるでしょう。その患者が色を取り戻す手がかりがつかめるようお手伝いしてみます」

「一年が限度です。仮に随分良くなっていても、一年以内に、自分から進んで外出しなければ、失敗です」

「はいはい、もうそれはどっちでもいいです。とにかく、患者さんの治療に当たらせてください」

ノマリは、この挑戦がうまくいくかどうか、死刑になるかどうか、はもうどうでも良かった。

その患者のことを聞いてしまった以上、ほっとけない。

自分の命が惜しいために、挑戦するのではない。

その患者の色を取り戻し、美しい本来の姿に戻っていってほしい。

ただそれだけの願いだ。

あと、一年も生きられる。

一年でできることはたくさんある。

しかし、この一年は他の患者の治療はできない。

刑務所に勾留されながら、見張りのスタッフとともに、往診で通い、治療にあたるのだ。

(できる限りのことはやってみよう)

ノマリはそう心に決め、魔女医裁判は終わった。

魔女医 第六章 ノマリの挑戦

ノマリは、これから一年間、刑務所で過ごし、引きこもりの男性の治療の時だけ、見張り役のスタッフとともに、出かけることになった。

引きこもりなので、もちろん訪問診療ということになる。

今までノマリは、訪問診療はしたことがなかった。

だから、勝手がよくわからない。

しかし、ノマリは思う。

診断基準を満たすような、病気の状態ではなくても、やはり、状況的には健康ではないと。

本人の内面の問題、環境的な問題、過去の体験の問題、色々重なった結果で、そういう状況になっているのだ。

それは、結局、誰も悪くないのである。

誰も責められないし、誰かが責任を取るべきものでもない。

ただ、今後どうしていくか、目的論を主に、取り組んでいくしかないのだろう。

原因を追求したって、答えは出ない。しかし、前へ進むためのヒントにはなるかもしれない。

だから、本人が受けてきた、心の傷があれば、出来るだけ癒さなければならない。

もしかしたら、傷を癒すために、無駄なエネルギーを消費しないようにじっとして、充電していただけかもしれない。

充電は完了していても、スイッチの入れ方がわからない。

そういうこともあるだろう。

万が一、精神の病だとしても、症状が激しい場合には病院に結びついているだろう。

症状が目立たず、派手じゃないほど、さほど問題視されないまま、ひっそりと引きこもりになっている可能性がある。

周りも、そんなに困らない。

ただ、部屋にこもって大人しくしているだけだから。

そうすると、ついつい放置してしまう。無関心になってしまう。

しかし、時の流れは、むごいものだ。

元気なはずの、保護者は、だんだん歳をとっていく。

もちろん本人も一緒に歳をとっていく。

自然な摂理でいくと、保護者が先に、死を迎えるだろう。

その後、残された者は、一体どうしたらいいのだろう?

一人になったとき、きっと立ちすくむであろう。

どうしていいかわからず、うろたえるであろう。

いや、うろたえる力が残っていたら、まだいいかもしれない。

保護者の方も、どうしていいのかわからないまま長年が経ち、いろいろ麻痺してきて、向き合う気力は失われているかもしれない。

ノマリはそんなことを考えながら、その引きこもりの男性と向き合うための、心の準備を整えた。

実は、最近の璃球には、引きこもる人が増えている。

不登校から引きこもって、何十年もそのままの人もいる。

これは、政府にとっても、頭を悩ませる大きな問題なのだ。

さっさと働けばいいじゃないか?

何をウジウジしているんだ?

そう考えがちかもしれない。

いろいろな人が対応策は考えているが、なかなか支援にすら繋がらない人も沢山いる。

そこで、ノマリにこの課題が与えられたのかもしれない。

うまくいけば、参考にしようとしているのか。

ダメでも、ノマリ一人を切り捨てれば、済むことだ。

当たるも八卦、当たらぬも八卦。

その引きこもりの男性が救われようが救われまいが、関係ないだろう。

綺麗事だけで、現場で本当に何が必要なのかは見ようとはしない。そういう努力をしている姿勢を示すパフォーマンスが、彼らにとっては大事なのだ。

いよいよ、初めての訪問診療の日になった。

「ノマリ、時間だ。鍵を開けるぞ」

三人のスタッフが、ノマリの牢屋まで迎えにきた。

牢屋の生活は、殺風景だが必要十分で、足るを知れば、そんなに悪いものでもない。

ただ、ピョエリが恋しい。

今は、信頼できる友人に預けている。

「おはようございます。今日からよろしくお願いいたします」

ノマリは、相手がどんなに乱雑に扱おうとも、自分は礼節を保つことにしている。

「念を押しておくが、今日から診てもらう患者には、この挑戦のことは言っていない。一緒に住んでいる母親にも。万が一、自分でそのことをバラすことがあったら、その時点で挑戦失格となる」

「なんで私が自分からそんなわざわざ、患者さんを動揺させるようなことを言うんですか。大体、こんなことに、患者の治療を利用するなんて、非人道的だと思いますがね」

「口を慎め。ではこの挑戦を放棄して死刑になるか?」

「いえ、言い過ぎました。ありがたく、挑戦させていただきますよ」

そう言って、車に乗り込んだ。

「診察中も、あなた方は、私に対して、横柄な態度をとり続けるのですか?」

「安心したらいい。診察中は、おとなしく、スタッフらしい振る舞いをしておく」

スタッフは、それぞれ、看護師、相談員、心理士で、行政で雇われている職員だ。

資格はそれぞれあるが、現場経験は、それほどなさそうだ。

看護師は中年の男性で、相談員は中年女性、心理士は若い女性だ。

車で一時間ほど走っただろうか、閑静な住宅街にその自宅はあった。

なかなか、立派な一軒家だ。

しかし、なぜ、ここに母親と二人暮らしなのだろう?

ノマリは早くも、疑問を持った。

「なぜ、母親と二人暮らしなのですか?」

「父親はいるが、忙しいから、社宅に住んでて、滅多に帰らないそうだ」

「ああ、なるほど」

周囲にわからないよう、車も普通仕様で、スタッフもノマリも、普段着で、知り合いが訪ねてきた風を装う。

「ごめんください」

チャイムを鳴らして、声をかける。

少し、やつれた様子の母親が出てきた。

「今日は、ありがとうございます。どうぞ、お入りください」

居間に通され、ソファーに腰掛ける。

綺麗に整理整頓された室内だ。

「はじめまして、ノマリと言います」

スタッフも続いてそれぞれ挨拶する。

「初めまして、私は母親の、ムミマ=ホヘです。息子の名前は、フヒです」

「今回の相談は、お母さんが希望して?」

「日頃から、一体どうしたらいいのだろうと気にしながら過ごしていましたが、このような相談方法があるとは知りませんでした。夫から、こういうことがあると教えられて、相談するように命じられたので、しました」

「ああ、そうでしたか。ご主人も、息子さんのことさぞかし心配されているでしょうね?」

「いえ、あの人は、仕事が一番大事ですから。息子のことはちっとも理解できないでしょう。だから、今回のことは不思議なんですよ。今までいくら相談しても、取り合ってくれなかったのに」

「そうでしたか、何か心がわりでもあったんでしょうかね?」

「さあ……電話でそれだけ言って、結局帰ってはきてませんけどね。いや、逆に帰ってきてもらっても困るんですよ。あの子に、色々プレッシャーをかけるようなことを言うだけですから。一度、口論になって、父親に掴みかかったこともあって、それから、夫は帰ってこなくなりました」

「お母さんには、何か暴力はありませんか?」

「あれば、私も、もう少し早くに、大ごとにして、どこかに相談に行ったんでしょうけど、それが、私には何もないんですよ。だから、ついつい、特に誰にも迷惑かけてないし、今はこれでいいのかなと、深く考えないようにして、過ごしてきました。こんなこと、なかなか、誰にも相談できませんしね」

「長い間、お一人で、支えてこられたのですね」

「はい、まあ、日常生活的には。夫は、ちゃんと生活費は入れてくれますし、この家もありますし、それだけでも、十分かなと思いまして」

「今日は、お母さんとだけの話にしておきますね。いきなり私たちが部屋に押しかけても、戸惑うでしょうし。一回、一時間前後の時間、伺いますね。長時間になって、負担になってもいけないので」

「あ、今日は会わなくていいですか? まだ本人にこのことを言ってなくて、どうしようかなと思ってました」

「十分にお母さんから、様子を聞いた上で、どう言うアプローチをするか、考えていきたいと思います。息子さんにも、ご自分の世界があると思うので、そこに土足で踏み込めません」

「息子には、どう言っておいたら良いでしょうか?」

「えっと、食事はどこで、してますか? 部屋で? それとも一緒に? 出てはくるけど別々に?」

「色々ですが、ほとんど部屋ですね。最近は滅多に出てきません。お風呂もなかなか入らないし、部屋の掃除にも入らせてくれません。部屋は相当散らかっているし、本人も、恥ずかしい話、ニオイます。すみません」

「いえいえ、それはまったく気にされないでください。それが普通にできていたら、とっくにやっているはずですから。人間は、健康だと、そういう状態を不快に思って、自然となんとかするはずなんですよ。それをしないということは、やっぱり、不健康な状態ではあります。病的かどうかは、今後、慎重に検討していきます」

「わかりました。よろしくお願いいたします」

「息子さんには、会う機会があれば、今日のことを話してみてください」

「どういう風に?」

「お母さん一人では、これからどうしていけばいいか、知恵が尽きたから、あなたを守るために、あなたの健康を取り戻すために、勇気を出して、しかるべき機関に相談したと。今日、担当になった人たちが、話を聞きにきてくれたと」

「それだけでいいですか?」

「それだけでいいでしょう。お母さんが、息子さんのために行動を起こしたことを知らせてください。決して、責めるような感じでいてはいけません。安心させるような感じで伝えてください。それでも反応は、様々です。いい反応が返ってくるとは限りません。むしろ、余計なことをして、と怒るかもしれません。万が一暴力を振るいそうなら。それは警察に関わってもらうのも止むを得ない状況になるかもしれません。お母さんは自分の身を守ることを優先してください。その場を離れて逃げてください」

「まあ、それはないと思いますけど、不機嫌にはなるかもしれませんね」

「それは、息子さんも、自分を守るのに必死ですから、仕方のない反応です。私たちも、どうやって信頼を得ていくかが課題です。なので、少しずつですね。焦らず、チャンスを待ちます」

「わかりました。私も焦ったらいけませんね。今さら焦ったところでという感じなので、とにかく、まずは私から、あなたがたを信頼して、協力をお願いします」

「ありがとうございます。ともに、無理しすぎず、やっていきましょう」

そういうと、本日の、訪問診療を終了した。

ノマリは、刑務所へ戻り、自室でこれからのことを考えた。

これまでは、自宅へは、仕事の考え事を持ち帰らないようにしていたが、今は、帰宅途中に海も見えないし、部屋にいても他にすることがないから、考えざるを得ない。

(一年間だと、訪問できる回数は約五十回。その間に何ができるんだろう……)

ノマリはいつも、スタッフが患者さんに問診してまとめてくれる生活歴を読んで、その人の物語を空想して作るのが好きだ。

その物語の主人公は、もちろん、その患者さんだ。

最初から細かいところまで、生活歴を全部聞けるわけではない。

信頼関係を構築しながら、適切なタイミングで、聞けることを聞き、物語を完成させていく。

過去から現在までは、すんだことだから変えられない。

けど現在から未来はこれから創造していくことで、どうにでもなるから、空想も自由だ。

本気で、心から、その患者がこれから進んで行く希望に満ちた未来の物語をイメージする。

ノマリは最近まで忙しかったら、患者さん一人一人の、漠然とした、幸福は願っていても、物語をじっくり空想する時間はなかなか取れずにいた。

なので、今回は、時間がたっぷりあるので、空想できる時間を楽しんでいる。

ノマリは小さい頃から、空想が大好きなのだ。

自分の空想は飽きるほどしたので、今は人の空想をして楽しんでいる。

(引きこもりの青年が、どうなったら、ハッピーストーリーなんだろうか? 誰にとってのハッピーなんだろうか?本人がハッピーを感じるのはどんな状態なんだろうか?)

ノマリは、俳優のように、その人物になりきってみる。

生活歴をたどり、そのような人生を歩んできたら、どういう心境になるだろうか?

今の環境で生活していたら、日々どういう心境だろうか?

今まさに変化が訪れる時で、物語が動いていく。

今までの生活歴は、起と承が終わりつつあるだけ。

覚悟を持って、責任を持って、転になるきっかけを作る。

そう思いながら、眠りにつくと、大抵は、明け方不思議な夢を見る。

今回の主人公であるフヒさんが、慌てて、必死に、家から飛び出して走っている。わき目もふらず、一心不乱に走っている。

涙を流しながら、でも、きっと前を見据えて走っている。

ただ、それだけの映像が見えた。

(フヒさん、なんであんなに必死に走ってたんだろう?)

そんなことを考えながら、あっという間に時は過ぎていく。

一週間後、二度目の訪問がすぐにやってきた。

「お待ちしてました。どうぞ」

二回目なので、母親のホヘさんも、和やかだ。

「あれから、フヒさんどうでした?」

「訪問診療のこと言いましたけど、うんともすんとも……俺は知らないから、かあさんは勝手にやればいいんじゃない?だそうです」

「まあ、じゃあ、私たちがここにくるのは大丈夫そうですね?」

「はい」

「急に、食事を食べなくなったり、寝れてなかったり、大声が出たりしていませんか?」

「はい、前と大して変わりません」

「意思疎通もできているなら、思考や知能は大丈夫そうですね」

「そうなんですか?」

「ちなみに、学校はどこまで出てますか?」

「高校は通信に進学したんですけど、続かなくて、退学しました」

「高校には進学はできたんですね」

「父親が、高校だけは通信でもいいから出た形にしておけと。勉強だけは無理矢理させましたら。でも、今になって考えてみれば、他にもっと大事なことがあっただろうに。私も夫の言いなりで、いいようにしてあげられなかったのを悔いてます」

「子育てに正解はありませんよ。みんなその時その時は必死ですから、考えが狭くなることはありますよね」

「自分をずっと責めてました」

「結果的にこうなってしまった状況は大変ですけど、実は誰も悪くないんですよ」

「そうなんですか?」

「お母さんは、もう十分頑張りました。原因を分析するのは、多少役に立つことはありますが、そこにこだわりすぎる必要はありません。さあ、これから、どうしましょうかね?」

ノマリは考えた。

いきなり部屋に尋ねていったところで、最初をしくじれば、一層頑なになっていくかもしれない。

生命や健康に、危機迫る状況なら、ある程度強行的な手段もやむを得ないが、今の状況では、そこまでしないといけない理由もない。

母親を疑うわけではないが、命に別状はないという姿を見て、確認したい。

とりあえず、体が健康でありさえすれば、長期戦で焦らず取り組んでいけばいい。

ノマリは、直感的に、この母親は、ありのままを語ってくれているとは思っていたが、いつも、心のどこか片隅では、疑いをもっていなくてはいけない。

嫌な職業病で、元々の性分もあると思うが、家族が偽っている、それも悪気なく無意識に、などの事態もいつもどこかで想定しておかないと、真実を見失うこともあるのだ。

ノマリは一つの方法を考えついた。

「いきなり、本人に接触するのは、リスクが高いので、まずは、私たちの気配を感じてもらいましょう」

「はあ。どうしましょうか?」

「フヒさんの部屋の近くで、お茶飲み話ができそうな空間はないですか?」

「フヒの部屋は二階なので」

「まあ、ちゃんとした部屋じゃなくてもいいです。まずは、階段の下に、ゴザでも敷いて、お茶飲み話でもしましょう」

「え? 階段の下でいいんですか? 通り道なので、狭いし、居心地悪いですよ」

ホヘさんは戸惑っている。

「ちなみに、トイレはどこですか?」

「二階にあります」

「さすがに、トイレに行くときは、部屋から出ますよね?」

「はい。よっぽど用事のあるときは、一階にも降りてきますよ」

「階段の下で話をしていたら、フヒさんの部屋まで声が聞こえるかな?」

「階段の下から、呼べば、聞こえているようなので、大きい声なら聞こえると思います」

「なら良かったです。ではそうしましょう」

見張りとしてついてきている、スタッフも、怪訝そうな表情をしているが、ここではノマリが治療の主導権を握っているので、従うしかない。それでも、一応抵抗は見せる。

「あの、ホヘさん、ノマリは少し、変な治療法の提案をしていますけど、お嫌じゃないですか?」

「正直、戸惑っていますけど、ワラをも掴む気持ちですし、仮に意味がないことだったとしても、害になることではなさそうなので、別に構いません」

内心、スタッフは、「ちっ」と思ったが、従うしかなかった。

その日からしばらく、訪問診療の日は、階段下にござを引いて、お茶飲み話をした。

他愛もない話題ばかりだ。

ノマリも、自分の生い立ちや、失敗談をあけすけに話すし、ホヘさんも、自分の生い立ちや、夫との出会いや、馴れ初め、フヒさんの成長過程のことなど、あけすけに話す。

ノマリは、気をつかって、スタッフにも質問を投げかけるが、差し障りのない、適当な返事しか返ってこない。

それでも、回を重ねるごとに、ノマリとホヘさんは、すっかり打ち解け、週一回の階段下のお茶飲み話が、二人とも楽しみになっていた。

ノマリは、ユーモアたっぷりに、面白おかしく話すので、ホヘさんだけでなく、スタッフもついつい油断して笑ってしまうこともあった。

「ああ、今日も、階段下のお茶飲み話楽しかった」

「ホヘさんいつも、お茶とお菓子の準備、大変ですよね? ありがとうございます」

「いいんですよ。週一回のむしろ楽しみになってます。人をもてなす準備を考えるのもなかなか楽しいものですね」

「そう言ってもらえると助かります」

「治療ってもっと堅苦しくて、緊張して、大変なものだと思ってました」

「そういえば、フヒさんは何かこのことについて言ってますか?」

「なんか、最近、賑やかな日があるねと。まあ、楽しいならいいけどって」

「フヒさん、お母さん思いで、優しいですね。もし、気になったら、フヒさんもどうぞと伝えててくださいね」

「それは、なかなか難しいとは思いますが、まあ伝えるだけ伝えてみます」

どうやら、このお茶飲み話に、興味は持ってくれたようだ。

週に一時間だから、そこまで煩わしくもないだろう。

ノマリは、そのうち、ひょっこり姿を見せてくれるんじゃないかと、期待した。

その後、フヒさんは、たまに、自分の部屋から出て、一階に降りてくるようになった。

ホヘさんは、フヒさんが、一階に降りてくるときには、お茶とお菓子を出して、リビングに誘い、階段下のお茶飲み話で話題に出たことを、話すようになった。

「ノマリさんは、魔女医なんだけど、コメディアンみたいに面白いこと言うのよ。ごめんね、いつもうるさくない?」

「うるさいといえば、うるさいけど、まあ週一回一時間だからいいよ。本当は、僕に会いにきているんじゃないの?」

「ああ、そうだったわね! 本当に。お母さんを治療しにきたんじゃないかと、錯覚していたわ! まあ、あなたも気が向いたら、気軽に顔だしてね」

フヒさんは、自分をダシに、治療という名目で、茶飲み話をしたいだけなんじゃないかと思うと少し、悔しい気持ちがした。

ある日、とうとう、その時はやってきた。

いつものように、階段下でお茶飲み話をしていると、フヒさんが、階段の上から、降りてきてた。

「あの、一階に用事があるんですけど」

「あら、フヒ。珍しいわね? お腹でも空いた?」

「まあ、そうだね」

「ああ、紹介するわね、この方が、そうそう、あなたの訪問診療に来てくださっている、ノマリさんよ。ああ、あなたの、治療のためにきているんだったわ。お母さん、また忘れてた!」

「ノマリです。あなたに会いたかった。ありがとう」

「まあ、何ヶ月も前から、賑やかでしたから、声は聞こえていましたけどね」

「そうでしたか! ああ、私たち邪魔ですね、どうぞ、どうぞ」

「あの、僕を診察しにきているのに、毎回僕には会わなくていいんですか?」

「もちろん、会いたいですよ! 今日は、元気そうな姿が見れて良かった。良かったら、好きな食べ物を持ってきて、ここで一緒にお茶飲み話しませんか?」

その後、フヒさんは、好きなお菓子を自分で持ってきて、お茶飲み話に、加わった。

そうは言っても、母親以外の人と、触れ合うのは、慣れていないから、無口だ。

けど、数分でもいいから、その輪に入ることが、目標だった。

ノマリは、楽しそうな、お茶飲み話で、フヒさんをおびき寄せることに成功した。

あとは、なるべく、フヒさんが、居心地いいように、配慮して、なるべく、この輪に参加してもらうことだ。

フヒさんは、少しずつ、この輪に入る時間が増えていき、少しずつ、話もするようになってきた。

もう、わざと部屋に聞こえるように、階段下でする必要も無くなったので、診察の日は、最初からフヒさんも、降りてきて、一階のリビングで、お茶飲み話をするようになった。

「診察が、こんなに楽しいなら、もっと早く受けていけば良かった」

「そう言ってもらえてうれしいわ。なんか、これから、こうしたいとかある?」

「まだ、そこまでは。やっぱり外に出るのは怖いなあ」

「それはそうよ。十年以上、出たことがないんだもの。外は、異世界に感じるでしょう」

「みんなに、白い目で見られそう。仕事もせず、この歳になっても、親に世話になって」

「誰も、好きで、引きこもりになるわけじゃないのよ。いろんな、状況、要因が積み重なって、最終的に起きている、一現象にしか過ぎないわ。誰のせいでもないし、誰も悪くない。世の中の人が、そういう風に、見てくれれば、出てきやすくなると思うんだけどね」

「そんなわけないよ。父は、世間はそんなに甘くないと、常に言っていた」

「お父さんに、受け入れられてない感じがする?」

「それは、もう。自分は、エリートの父と比べて、出来なさすぎる」

「そう。それがそのまま、社会から受け入れられてないと感じることにつながっているかもね」

「どうして、父はあんなに厳しいのでしょうか?」

「お父さん自身に、何か満たされていないものがあるのかもしれませんね」

「父を変えることはできないですかね?」

「なかなか、難しいかもしれない。でも、自分が変わるのは、お父さんを変えるよりは、簡単かもしれないよ」

「まだ、そこまで考えられないや」

こうして、お茶飲み話をしながらも、フヒさんの、思いを言語化していくよう、働きかけていった。

時には、みんなで、時には、ノマリと二人で、話をして、辛くなったらやめるということを繰り返した。

気付けば、もう、一年が過ぎようとしていた。

毎週、同じメンバーで、会って話していたから、最初は敵対していたスタッフとも、すっかり打ち解けて、仲間のようになっていた。

フヒさんは、もう普通に会話もできるし、表情もよく、笑うことも、怒ることもできるようになっていた。

最近は、暇をもてあますように感じて、ノマリに、どんな本を読んだらいいか、聞いてくることもあった。

しかし、ノマリは、外の世界に飛び出すには、もう少し時間がかかると感じていた。

一年の期限が来るからといって、大事な局面だから、決して焦らせてはいけない。

それに、もしかしたら、まずは魔女病院に入院して、色々整えながら、本格的に社会と再び繋がる準備をしていったほうがいいのかもしれない。

となると、自分から、外に出るという、課題は、まだ今のフヒさんには、重すぎるし、早すぎるような気がする。

とりあえず、家族以外の人と接触できるようにはなったのだから、今はこれでよし、だな。

とうとう、最後の訪問診療の日が来た。

もちろん、スタッフは知っている。

行きの車の中で、スタッフは、心配そうに声をかける。

「あの、ノマリ、わかっていると思うけど、今日が最後です。もし、今日の訪問診療で、フヒさんが自分から家を出ることがなかったら……」

「わかっているよ。けど、無理強いはできないし、フヒさんは、十分頑張って、ここまで来たから、あとは時間の問題で、大丈夫だと思う。けど、それは、今じゃない。次の担当魔女医に、ちゃんと、引き継ぎはしたい」

「言うだけで言ってみたらどうですか? 今日はちょっと外出てみない?って」

「まあ、言ってはみるか。それで、私が助かれば、また会えるし」

「そうですよ。言ってみましょうよ。今や、私たちは、あなたを助けたいですよ」

「気持ちは嬉しいけど、絶対に、バラしたらだめよ。あなたたちも、どんな目にあうかわからないわよ。お偉い役人様をなめたら痛い目に合うわよ。私みたいに」

「ノマリが死刑になったら嫌だな……」

「私だって嫌だけど、しょうがない。一年前に覚悟は決めていたけど、フヒさんのことは気になるわね、やっぱり」

「何か、方法はないのかなあ……」

「わかっていると、思うけど、私は悪いことはしていないから、死んで透明に戻るだけよ」

「はあ……今日で最後か……」

「最後に、一回だけ、フヒさんの体の色を見せてもらおうかな。今まで、恥ずかしがって見せてくれなかったのよ。だいぶ、自分の色を取り戻しているといいけど……」

そうこうしているうちに、到着した。

最後の訪問診療、と言っても、いつもにお茶飲み話が始まった。

「フヒさん、そろそろ、外の空気を吸いたくならない?」

「やっぱり、次は、そうなりますよね。でも、今は、まだ怖いです」

「そうだよね。十年以上出てないから、いきなりは、どうしてもね」

「社会との間に、大きな厚い壁を感じます」

「例えば、今後、一旦、魔女病院へ入院するのはどう? あそこは、いろんな意味で、中間的な居場所になり得るから」

「あそこは、色が悪くないと入院できないでしょ? 僕の場合、色はあんまり悪くないから」

「でも、もしあなたが、魔女病院で療養しながら、支援を受けることを考えて、社会に踏み出す準備を整えたいと思うなら、何か軽い病名をつけて、入院に持っていくことはできるよ。魔女医はその辺、融通がきくから」

「そうですか。ちょっと考えてみます」

「今日は、ちょっと魔女医らしく、体の色を診察させてもらおうかな?」

「ちょっとはずかしいけど、これから魔女病院の入院もあるかもしれないし、診てもらわないといけませんね。お願いします」

そう言って、別な部屋で、上半身だけ裸になってもらい、体の色を診察した。

診た瞬間、ノマリは、これは、もしかして? と思った。

しかし、口や顔には出さず、また確信もできなかったので、平静を装う。

「うん、綺麗な色だね。昔から、こんな色だった?」

「昔からこんな色ではあったけど、引きこもり始めてから、だいぶくすんでたね。最近いい色に戻ってきていると思う。こんなんじゃ、入院できないでしょ?」

「そんなことないよ。まだ、ちょっと心配な箇所はある。ただ、あなたが、入院したいかどうかが大事だけど」

「前は、そんな、魔女病院なんて、得体の知れないところ、絶対嫌だと思っていたけど、ノマリのような魔女医がいるなら、行ってみてもいいかな」

「ありがとう。魔女病院は、いいところよ。駆け込み寺とか、最後の砦みたいなところ」

「きっと、そうなんだね。自宅からいきなり社会は怖いから、魔女病院に入院するよ」

「それなら、その段取りを進めるからね。お母さんにも、伝えようね」

診察を終え、ホヘさんに、そのことを説明すると、涙を流していた。

「正直、ちょっと寂しいですが、ここから先は、私の力の及ばないところです。私も年をとる一方ですし、今の時点で、支援してくれる人、見守ってくれる人と、つながっていってもらうことが、親として、本当に子どもを思うことだと思います。どうかよろしくお願いいたします」

「経済的な基盤を含めて、住居の確保や、生活が破綻しないための支援、就労など、フヒさんにできること、できないこと、見極めながら、考えていくことになると思います。ホヘさんが元気なうちに、色々してもらわないといけない、手続きなどあります。そこは、大変ですが、フヒさんのために頑張ってくださいね」

「もちろんです。今できる協力は惜しみません。光が見えてきました。本当にありがとうございます」

「ただ、挑戦してみて、また後戻りすることもあるかもしれません。その時は、まだ準備と充電が足りなかっただけと思って、がっかりしないであげてください。行ったり来たりしながら、少しずつ進んでいけばいいし、何もかも自分でできるようになることが自立ではありません。自分のできること、できないことを知って、他人に、支援してもらいながら、誰にも心配かけずに、安定した生活が送れるのなら、それは立派な自立です」

「そうですね。一喜一憂しないようにします。どーんと構えます。大事な息子に変わりはないですから。お茶飲み話してみて、あんなに色々と自分の考えを言える子だとは思いませんでした。私は一体、フヒの何をみていたのでしょうね? あの子の回復力を信じます」

ノマリは、色について、言いたかったし、聞きたかったが、混乱させてはいけないので、慎んだ。

そうして、最後の訪問診療は、終了した。

ノマリの挑戦は、失敗に終わった。

しかし、ノマリは、治療自体は、失敗したとは思っていない。

ここまでで、できることはやった。

見届けられないのは残念だが、フヒさんのあの色ならきっと……

そう思いながら、牢屋へ戻った。

魔女医 第七章 誰も追いつめられないように

期日までに、課題をクリアできなかったノマリは、正式に死刑が決まった。

「残念だったたなノマリ。自分のために、何がなんでも外に出させれば良かったのに」

あの高官が、ノマリの牢屋に訪ねてきた。

「するべきことはしましたから、悔いはありません。ただ、フヒさんは、せっかく自分から、魔女病院に入院する気持ちにはなったのだから、その後もちゃんとフォローしてあげてください」

「魔女病院に入院するなんて、むしろ後戻りじゃないか! どうしてそんなことになったんだ! さっさと社会に放り出せば良かったんだ。本人に根性がないからそんなことになるんだ!」

高官は、なぜか、怒っている。

「まあ良い、ノマリも大した魔女医じゃなかったということだな。活躍できないなら、必要ない。さっさと消えてしまえ」

「ええ、最後に透明になるだけですから。今度は、どんな男女の結びつきの元に生まれるか、楽しみなだけです。言っときますけど、もしこれで私が無実なら、あなたがたは、殺人を犯したことになりますよ。最後に死を迎えたら、真っ黒な塊になって、永遠に瑠宙をさまようことになります」

璃球では、直接間接に関わらず、無実な人を死に追いやる、つまり殺人を犯した魂はそうなるのだ。

「そんなことはわかっておる。だからなんだというのだ。そんなことは何も怖くない」

「無になって永遠にさまよい続けるということが、どんなに苦痛で、たまらないことか、あなたはわかってない」

「ふん。命乞いするつもりか?」

「そうではありません。あなたに、そういう思いをさせたくないだけです」

「お情け作戦か? 人間なんてつまらない。物になった方がマシだ。感情なんか煩わしい。次生まれる時は、そんなもの持ちたくもない。だから、死んだ後どうなろうと構わんのだよ、私は」

「そんな考えの人が、国の高官とは……あなたも無色透明で生まれてきただろうに、何があったんでしょうね?」

「ふん、そんなことはどうでも良い」

「ただの、すねて、いじけている、子どもにしか見えませんよ」

「もう良い。明日、私も、お前の死刑を見届ける。さらばだ、ノマリ。期待したが、残念だったよ」

「ご期待に応えられなくて、残念です。では、今後もどうかお元気で」

ノマリがそういうと、黙って去っていった。

しかし、なぜ、この高官は、フヒさんが魔女病院へ入院することに対し、あんなに怒っていたのだろうか? 

魔女病院が嫌いなのはわかるけど、フヒさんがどんな方法を取ろうと、あの高官には関係ないのに。

これから、引きこもりの人が、魔女病院に入院することが増えたら、医療経済的に負担が増えるとか、そういうことかしら? 

ノマリは、疑問に思ったが、明日、命を終えるのだし、私の心配することでもないから、まあいいかと思い直した。

その晩、いつも通り寝る時間になった。

時間は、どんな状況でも、立ち止まることはない。

待ってはくれない。

時間は残酷だ。

死を迎えることが、怖くないといえば嘘になる。

誰だって、どんなに、心の修行を積んだとしても、いざ死を意識すると怖くなるのではないだろうか?

「もっと生きたかったな。まだ今回の人生でやれることはあったと思うんだけどな。ピョエリに一目会いたかったな。次は、猫に生まれ変わりたいな。あの高官のいうとおり、人間は感情があるから、疲れる。でも、また人間に生まれて、心の修行を積むのも、悪くないな」

そう呟きながら、ノマリは眠りについた。

翌日、朝が来た。

いい天気だ。

死刑が行われる時には、たくさんの人が集まる。

公開処刑なのだ。

そんなに酷いものではない。注射を一本打つだけだ。

みんなは、酷い仕打ちより、死んだ後に、透明になるかどうかに興味があるのだ。

やっぱり、悪人だった、とか、この人は無実だった、とか。

たとえ、無実であっても、高官や裁判官たちは、口を揃えて、疑われるようなことをしていたのだから仕方ないで片付ける。

正義感の溢れる人は文句を言ったりするが、取り合ってはくれない。

しかし、最後には、その人の善悪が、みんなの前で示されれるから、無駄な死だったとしても、無実の場合は、潔白は証明できる。

でも、それでは、手遅れだし、報われない。

無色透明に戻って、新しい命として誕生できるのが、唯一の救いだ。

ノマリは、時間になり、牢屋を出て、処刑場に向かった。

いつもの、白いマントで身を包み、覚悟を決めた。

ちょうどそのころ、スタッフ役の三人が、フヒさんの家を訪ねていた。

「ごめんください。訪問診療のスタッフです」

「はーい。あら、今日は訪問診療じゃないですよね? もう魔女病院に入院する日も決まったし、訪問診療は終わりだと思ってました」

ホヘさんが応対する。

「実は、お話したいことがありまして。ちょっといいですか?」

「もちろん、どうぞ、どうぞ」

リビングへ通され、フヒさんも呼んで、三人は代わる代わる話し始めた。

「このことは、黙っておかないと、私たちも罰されるんですが、」

「はあ」

「今日、もうすぐ、ノマリは、処刑されます。死刑です」

「はい?」

「実は、一年前に、コード操作の罪を疑われて。そこで、課題が出されたんです。ノマリの治療によって、引きこもりのフヒさんが、自分から、社会に出て行けば、死刑は免れれると。一年以内に達成できなかったら、死刑確定だと」

「ええ!」

「それで、前回が最後の訪問診療だったのです」

「そんなこと……教えてくれれば、 僕は、頑張って、なんとしてでも社会に出て行ったのに」

「でも、その課題については、言ってはいけないルールだったのです。もし、バレたら、その時点でその課題は失格だと。それに、ノマリは、そんな条件付きのモチベーションは、治療になんの意味もないと、思ってましたから」

「僕は、どうしたらいいんですか?」

「いや、もう手遅れだから、どうしようもないんですが……せめて、最後に一目ノマリに会いたいかなと思って。我々も、三人で話し合って、罰を覚悟で、伝えに来ました。不思議なことに、最近やたらと、勇気が出てきて……言わずにはいられなくなりました。今までは、あんなに高官たちに怯えていたのに。処刑の時間は間もなくです。国会議事堂前の広場で行われます。幸い、ここからそう遠くはありません。急いで行きませんか? 怖いなら無理は言いませんが」

「行くに決まっているじゃないですか! 急いで行きましょう」

三人と、ホヘさん、フヒさんは、車に乗って、広場に急いで向かった。

なんとも、軽やかに、簡単に、フヒさんは、自宅から飛び出した。

今まで、自宅から出れなかったのが、嘘みたいに。

車のなかでフヒさんは、走馬灯のように、ノマリとのやりとりを思い出していた。

魔女病院への入院を決めてから、体の色が、ますますはっきりしてきていた。

「僕の色って、こんな色だったんだ」

とつくづく、思っていた。

広場が見える距離まで来たところで、渋滞に巻き込まれた。

どうやら、ノマリの処刑を知った人が、見物に駆けつけているようだ。

ただの野次馬もいれば、治療してもらった人もいる。

「フヒさん、ここから先は、走って行ったほうが早い。久しぶりに出た外界が、こんなに人がいっぱいで戸惑うかもしれないが、なんとか頑張ってノマリの近くまで言ってくれ」

「フヒ、お母さんは走れないから、あなただけ行きなさい。必ず最後にノマリにお礼を言ってちょうだいね」

「わかった。僕、行きます」

そういって。車を飛び出した。

ホヘさんはひそかに、心の中で、フヒさんが今、母親の自分から卒業できたんだと感じていた。

なぜか、母親のホヘさん自身も最近、その勇気が出たところであった。

フヒさんは、走りながら思う。

今まで、自分は、一体何をもたもたしていたんだろう。

ノマリは、充電しているだけと言っていたが、もうとっくに充電は済んでいたんだ。

ただ、怖かった。

社会の大人がみんな、自分の父親みたいな人かと思ってて。

絶対受け入れてもらえないと、信じ込んでいた。

でも、ノマリみたいな人も、結構いるんじゃないかと思えてきた。

父親には、認めてもらえなくても、社会には受け入れてもらえるような気がしてきた。父親と社会は同じではない。一体ではないのだ。

そう、考えながら、一心不乱に、涙を流しながら、懸命に走った。

とうとう広場にたどり着き、ノマリの姿が見えた。

役人に取り囲まれ、真ん中の椅子に座っている。

国会議事堂のバルコニーからは、高官たちが座って、その様子を見ている。

「あ、父さん!」

高官の一人に、フヒさんの父親の姿があった。

ノマリをおとし入れ、あの課題を出した、あの高官だ。

「そういうことだったのか!」

フヒさんは、瞬時に、事態を飲み込んだ。

「父さんが、僕を使って、ノマリに課題を与えたんだ。父さんは僕を信じてないから、どうせ、できっこないだろうと、たがをくくって」

フヒさんは、怒りがこみ上げた。

「よーし!」

そう気合をいれると、人ごみをかき分け、あらゆる役人を振り切って、ノマリに近づき、役人たちに、両脇を抱えながらも、バルコニーに向かって叫んだ。

「父さん、僕は、自分から、家を飛び出して、社会に出てきた。これで、課題はクリアだ。ノマリを死刑にしないでくれ」

「フヒさん! なぜここに?」

ノマリはびっくりした。

「父さんって、なに? どういうこと?」

あの高官が、なにやら慌てている。

ノマリも、事態を理解した。

「フヒさんの、お父さんって、あの高官なんだ! だから……」

次の瞬間、フヒさんの体が、今まで見たことないような、美しい、瑠璃色に輝き始めた。

白いシャツを通しても、その色の輝きが、どんどん周りに広がっていく。

「フヒさん、ちょっとそのシャツ脱いでみて。いきなり外の世界に出てきて、大勢の前で上半身裸になるのも、なんだけど、お願い!」

フヒさんは、ノマリの言う通り、白いシャツを脱いだ。

「瑠璃色だ! 瑠璃色の勇者だ!」

民衆の誰かが、大きな声で叫んだ。

「本当だ! 瑠璃色の勇者だ! この人が、瑠璃色の勇者なのか? 間違いない。あんなに強くて美しい瑠璃色は見たことがない」

わぁっと歓声が沸いた。

そこに、遅れて、ホヘさんと、三人のスタッフが着いて、フヒさんの姿をとらえた。

「あの子がまさか、瑠璃色だったなんて! まだ幼いころ、一瞬もしかして? と思った時期もあったけど、そのあとはなんだか違う色になっていたから、わからなかった!」

スタッフ三人も驚いている。

「だから、最近私たちも、勇気が出てきてたんだ。あの色が戻ってきたフヒさんと触れ合っていたから」

観衆がますますわき、ノマリの処刑どころではなくなった。高官たちは、慌てふためき、事態を収拾しようとあわあわしている。

フヒさんをとらえていた役人たちも、フヒさんを解放した。

フヒさんは、バルコニーにいる父親のところに近づいて、叫んだ。

「父さん、僕はもうあなたのことは怖くない。僕の生きかたをあなたに認めてもらえなくても、僕は、僕の意思で、生きていく。魔女病院に入院することを恥だと思うでしょうが、僕はそう思いません。社会に出ていくための、一つの通過点に過ぎません。きっとそんなに長く入院せずに、済むでしょう。それでも、今の僕には必要な過程です」

「勝手にするがよい。わしはもう知らん。この恥知らずが!」

民衆たちも、ノマリの死刑に反対している。

「高官、役人ども! ノマリを解放せよ! 瑠璃色の勇者を社会に戻したんだ!」

「そうだ、そうだ!」

高官たちは、頭を抱えた。話し合いを始めた。

「どうしますか? このまま死刑を執行したら、ますます収拾がつきませんぞ」

「反発する者たちを全員処刑するわけにもいきませんし」

「一応、課題は達成したのだから、ギリギリ死刑は免れたと言うことでいいのではないですか?」

「しかし、あなたの息子が、引きこもりだったとは」

「これ以上の昇進はないでしょうね。いや今回のことで、どんな処分になるやら……」

意見はまとまった。

フヒさんの父親は歯をギリギリとさせ悔しそうに顔を歪めた。フヒさんとは対照的に体の色がどんどんくすみ始め、とうとう顔の方まで及んできていた。

「みなさん、課題はクリアされました。ノマリの死刑はなしです。釈放されます。だから落ち着いて。今日は、もうこれで終わりです。さあ、帰って、帰って」

こうして、フヒさんが、勇気を取り戻したおかげで、ノマリは助かった。

璃球には、必ず一人、瑠璃色を持った勇者が存在するのだ。

けど、ここのところ、その勇者が誰かわからなかった。

いや、わざわざ知らせる必要はないのだが、勇者の色がくすんでいると、世の中全体も、勇気が出ない世のなかになってしまうのだ。

長年、瑠璃色の勇者が、自宅に引きこもっていたから、璃球の色もおかしくなっていた。

両親でさえ、息子の瑠璃色に気づかないでいたのだ。

ノマリは釈放され、あの高官に語りかける。

「あなたが、私に息子さんを託したのは、あなたの親心ではなかったのですか?」

「ただ利用しただけだ」

「もう自分ではどうしていいのかわからなかったから、無関心になっていたのですよね?」

「ふん。わしに説教するつもりか?」

「いえ、あなたのように、立派な地位や肩書きがあると、なかなか、相談しにくかったんだと思います」

「子ども一人に、自分の人生を邪魔されてたまるか」

「あなたを責めているわけではありません。あなたも犠牲者に過ぎないのです」

「わしが犠牲者だと? ふざけるな!」

「私ごときに、憐れまれたくないですよね。でも、それが真実です。人格が未熟なまま、親になっただけです」

「未熟だと? 馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

「でも、今、フヒさんは、あなたの未熟さを超えました。あなたの観念に縛られることはないでしょう。ただ、あなたと、ホヘさんの結びつきによって、フヒさんがあの色を持って生まれてきたことは、変えようのない事実です」

そこへ、フヒさんも、やってきた。

「父さん、僕は、もう父さんを恨んでないよ。すべてを許します。許すと言ったらおこがましいけど。父さんは、無関心だったけど、お金はちゃんと、払ってくれて、僕と、母さんを生かしてくれた。それだけで良かったんだ。父さんに認められたいなんて、僕の幼いこだわりだったんだ。だから、父さんと社会は別物だということに目を向けなかった。やっと気づいた。瑠璃色の勇者としてこの世に送り出してくれてありがとう。僕にとっては、あなたもただの通過点に過ぎなかった。それでも、僕が父さんに、何か喜びを与えられたことがあったらいいけど。まあ、そんなものも、なくてもいいか。父さん、さようなら!」

フヒさんは、吹っ切れた、様子で、堂々と、宣言した。

ノマリは、民衆にも語りかける。

「みなさん、ありがとう。私はもう少し生きてもいいようです。フヒさんは、たまたま瑠璃色の勇者だったけど、みなさんも、それぞれが、美しい色を持っているはずです。その美しい色は、どの色も、この世のなかに必要な色です。今までにたった一つしかない色です。だから、一人一人が、その色を、見失わずに、輝かせてください。高官や、役人たちも、自分たちの職務を全うするために、必死なのです。必死で自分の色を忘れかける場合もあるかもしれません。そういう人を見かけても、自分の色を見失ってなければ、救うことができるかもしれません。誰も追いつめられないように、誰も追いつめられない世のなかに、なっていきましょう。瑠璃色の勇者も、外に出てきたことだし、璃球のみなさんの勇気が、ますます回復していくでしょう」

璃球が、今までになく、美しく輝いている。

瑠宙の璃球は、美しい瑠璃色なのだ。

エピローグ

「おやおや、ノマリはどうやらこのゲームをクリアしたみたいだぞ」

「思ったより早かったなあ」

「まあ、あの星は心がわかりやすかったからな」

三人のヌシがなにやら、テレビゲームのようなものをしながら雑談している。

ヌシはすべての根源のアルジで、あらゆる宙や星、生命体、物質、次元、時空を生み出し、見渡している。

「さて、次はどこの星にしようか?」

「他に心を持った生命体が存在する星はあるかな?」

「たしか……」

ヌシたちは、あらゆる次元、時空を見渡した。

「ここはどうかな? 宇宙のなかの……」

「生命体は……心があるのは、この青と緑の美しい星だな」

「地球か」

前述のとおり、地球は璃球とよく似た美しい星だ。

「しかし、この星は難しいぞ……心が色には現れない」

「みんなどうやって心をわかりあうんだ?」

「どうやら、言葉や表情や行動でのコミュニケーションだけでやってるらしいぞ」

ヌシたちは、しばらく考え込んだ。

「よし、少し難しそうだが、ここにしよう」

「主人公はどうする?」

「さっき活躍したノマリはどうだ?」

どうやらヌシたちはノマリを気に入ったようだ。

「時空を操作して、まだ未熟だったころのノマリを地球に送り込もう」

「それはいい考えだ」

「そこでの修行が今回の活躍に役立ったという、つじつまも合う」

ヌシたちの意見が一致した。

「それでは、ゲームを始めるとしよう」

「璃球のようにこのゲームをクリアして、より美しい星になりますように」

「テマーレ!」

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