「定年後、何するの?」と聞かれて黙ってしまう男が、生き生きと楽しむ自信を再駆動するには?
社会の役割を失った瞬間、自分が消える恐怖。でも本当に失ったのは肩書きではなく、自分として生きる感覚だったのかもしれない。
「定年後、何するの?」
そう聞かれた瞬間、言葉に詰まる。
趣味もない。
特別やりたいこともない。
考えたこともなかった。
そもそも、自分が何をしたいのかすら、よくわからない。
それは、怠けていたからではない。
むしろ逆だ。
ずっと、何かの役割を生きてきたからだ。
会社員として。
夫として。
父として。
社会の歯車として。
そこに自分はいた。
いや、正確には、そこに「いるべき自分」を演じ続けてきた。
だから、その役割が外れた瞬間、何も残らない。
空っぽになる。
自分が消える。
それは、能力が衰えたからではない。
本当に恐ろしいのは、社会から必要とされなくなることではなく、自分が自分として生きてこなかった、という事実に直面することだ。
人は、役割の中で生きている間は、自分と向き合わなくていい。
家族を養うため。
責任を果たすため。
周囲の期待に応えるため。
そうやって、外側に理由があるうちは、内側を見なくて済む。
だが定年は、その理由を奪っていく。
もう、会社に行かなくていい。
もう、誰かに必要とされなくてもいい。
もう、義務も責任も、以前ほど重くない。
自由になったはずなのに、なぜか途方に暮れる。
それは、自由が怖いからだ。
自由とは、選べるということ。
だが選ぶには、自分の欲望を知っていなければならない。
何がしたいのか。
何が好きなのか。
どう生きたいのか。
その問いに、長い間、答えてこなかった。
いや、答える必要がなかった。
人生の大半を、受け身で生きてきた。
与えられた役割をこなし、期待に応え、正しく振る舞うことに全力を注いできた。
それは間違いではなかった。
立派だったとも言える。
だが、その代償として、自分の内側にあったはずの欲望や衝動は、少しずつ見えなくなっていった。
定年後に何もやることがないのではない。
ただ、自分が何をしたいのかを、長い間、問わずに生きてきただけだ。
だからこそ、ここは終わりではない。
むしろ、ようやく始められる場所でもある。
今まで、役割に縛られていた。
でも今は、縛るものがない。
つまり、初めて「自分として動き出せる」チャンスが来たということだ。
最初は戸惑うかもしれない。
何をしたらいいのかわからない。
そもそも、何がしたいのかもわからない。
それでいい。
わからないところから、始めればいい。
まず必要なのは、小さな好奇心を拾い上げることだ。
少しでも気になったこと。
なんとなく面白そうだと思ったこと。
昔、やりたかったけれど諦めたこと。
そこに、正しさはいらない。
役に立つかどうかも関係ない。
誰かに認められる必要もない。
ただ、自分の中で「ちょっと気になる」という感覚があれば、それで十分だ。
それは、ディナーのあとのデザートに似ている。
メインディッシュは、もう食べ終えた。
責任も、義務も、ひととおりやり遂げた。
なら次は、義務感ではなく、ただ楽しいからという理由で選んでいい。
甘いものが好きなら甘いもの。
さっぱりしたものが好きならフルーツ。
いらないなら、いらない。
そこに正解はない。
ただ、自分の感覚に従うだけ。
そして、少しキャピキャピしたっていい。
大人になると、人は「落ち着くこと」を美徳だと思い込む。
はしゃぐことを恥ずかしがる。
楽しそうにすることを、どこか幼稚だと感じてしまう。
でも本当は、ワクワクする感覚こそ、生きている実感に近い。
新しいことに挑戦する時の、ちょっとした高揚感。
うまくいかなくても、なんだか笑ってしまうような感じ。
失敗してもいいやと思える軽やかさ。
そういう感覚を、もう一度取り戻していい。
それは、若作りではない。
子どもに戻ることでもない。
ただ、自分の内側にある生命力を、もう一度解放することに近い。
人は、義務だけでは長く生きられない。
どこかで、遊びや楽しさや、ふわっとした軽やかさがないと、心が干からびていく。
定年後の人生は、ただ余生を消費する時間ではない。
むしろ、初めて自分のために使える時間だ。
そこで必要なのは、立派な目標ではない。
もっと小さな、でも確かな衝動だ。
ちょっとやってみたい。
なんとなく気になる。
よくわからないけど、面白そう。
その感覚を、否定しないこと。
「今さら」と思わないこと。
「もう遅い」と決めつけないこと。
「どうせ無理」と片付けないこと。
そうやって、自分の中の小さな火種を消してきたから、今、何も残っていないように感じるだけだ。
でも、火種は消えていない。
ただ、長い間、灰をかぶっていただけ。
少し息を吹きかければ、また燃え始める。
定年後の人生を生き生きと過ごしている人は、何か特別なことをしているわけではない。
ただ、自分の感覚を信じて、小さく動き出しただけだ。
それは、趣味かもしれない。
誰かとの交流かもしれない。
新しい学びかもしれない。
ただ散歩するだけかもしれない。
形は何でもいい。
大事なのは、自分が選んでいるという感覚だ。
受け身ではなく、能動的に。
義務ではなく、欲望から。
ちゃんとしようとするのではなく、ちょっと遊ぶように。
そうやって、少しずつ、自分を起動し直していく。
それは劇的な変化ではない。
でも、確かに何かが動き始める。
「定年後、何するの?」
その問いに、今は答えられなくてもいい。
ただ、これからは、自分に問いかけ続けることだ。
「自分は、本当は何がしたいのか」
「何に興味があるのか」
「何をしている時、少しでも楽しいと感じるのか」
その問いを放棄しなければ、人生は少しずつ、また動き出す。
定年は、終わりではない。
ようやく、自分として生きられる時間の始まりだ。