「自信がない」のではない。自分をごまかしたまま生きているだけだ
「自信がない」と言う人ほど、本当は自信を持っている。
おかしな話に聞こえるかもしれない。だが、よく見てほしい。自信が本当にゼロなら、人は何も恐れない。
自信がないから動けないのではない。自信を出して失敗した時に傷つくのが怖いから、最初から「自信がない」と言い訳をしている。
それは防衛である。自己欺瞞である。
あなたは、本当はどこかで知っている。自分にできること。自分が持っている力。これまで積み上げてきたもの。
だが、それを出さない。出したら期待される。出したら評価される。出したら、もし失敗した時に恥ずかしい。
だから、先に「自信がない」と宣言しておく。そうすれば、できなくても仕方ない。傷つかずに済む。
一見すると謙虚に見える。でも本当は、臆病なだけだ。
本当に恐れているのは、「自信がないこと」ではない。「自信を持つこと」のほうだ。
自信を持つということは、ある種の「宣言」である。自分はこれができる。自分にはこの価値がある。そう公言することに等しい。
そして、宣言した瞬間、人は評価の対象になる。期待される。見られる。そして、もし失敗すれば、自分で言ったことが嘘になる。
だから、自信を持つためには、「自信を持つための自信」が必要になる。失敗しても崩れない土台。傷ついても立ち直れる強さ。
だが、それがない。
だから、最初から自信を出さない。控えめにしておく。期待されなければ、裏切ることもない。そうやって、自分を守っている。
これは、防衛機制としては機能する。短期的には安全だ。だが、長期的には自分を殺していく。
過去に、自信を持って挑んで、失敗したことがあるはずだ。
それは、仕事かもしれない。恋愛かもしれない。人間関係かもしれない。何かに挑戦して、期待して、でも結果が出なかった。そして、恥をかいた。惨めだった。自分が情けなかった。
その経験が、今も残っている。
だから、もう二度と同じ目には遭いたくない。もう傷つきたくない。そう思って、自信を出さなくなった。
「自信がない」は、実は「傷つきたくない」の言い換えである。
人は、自分を守るために嘘をつく。そして、その嘘を自分でも信じ始める。本当に自信がないと思い込む。
だが、違う。
自信がないのではなく、自信を出すことから逃げている。その違いは、決定的だ。
自信を出さずに生きることは、ある意味では楽だ。期待されない。失敗しても仕方ない。誰も責めない。
だが、その代償は大きい。
ひとつは、自分が本当に持っている力を、一生使わないまま終わるということ。もうひとつは、自分で自分を信じられなくなるということ。そして、最も恐ろしいのは、死ぬ時に「自分は何もしなかった」という後悔を抱えたまま終わることだ。
自信を出さずに生きた人間は、最後に必ず後悔する。「あの時、やっておけばよかった」と。
でも、もうその時には遅い。
いじけている場合ではない。
あなたには、本当はできることがある。ひそかに自信を持っていることがある。それを、さっさと出したほうがいい。
もちろん、失敗するかもしれない。恥をかくかもしれない。期待外れだと言われるかもしれない。
だが、それでも出したほうがいい。
なぜなら、出さなければ、あなたはずっと「傷ついたまま」だからだ。
過去に傷ついた自分。自信を持って失敗した自分。恥をかいた自分。その記憶が、今もあなたを支配している。
その支配から逃れる方法は、ひとつしかない。もう一度、自信を出すことだ。
今度は、失敗しても崩れないように。傷ついても立ち直れるように。そのための土台を、少しずつ作りながら。
そうやって、もう一度自分を起動させること。それが「リブート」である。
自信とは、完璧であることではない。失敗しないことでもない。
自信とは、「失敗しても、自分の価値は消えない」と知っていることだ。傷ついても、また立ち上がれると知っていることだ。
そして、その感覚は、頭で理解するものではない。実際に傷ついて、それでも生きていけることを、身体で知ることでしか得られない。
だから、もう一度出すしかない。
自分が本当は持っている力を。ひそかに自信があることを。それを、恐れながらでもいいから、出してみること。
その一歩が、あなたを変え始める。
「自信がない」と言い続けている限り、あなたは安全だ。でも、生きてはいない。
本当に生きるというのは、リスクを取ることだ。傷つく可能性を引き受けることだ。それでも、自分を出すことだ。
あなたには、まだ時間がある。
でも、永遠にあるわけではない。
だから、さっさと出したほうがいい。あなたが本当は持っている、その力を。