父の葬式で何も感じなかった男が、本当の意味で親の影響を受けなくなる自信を再駆動するには?
父が亡くなった。
喪主として葬儀を取り仕切り、参列者の前で挨拶をした。
そして、何も感じなかった。
涙が出るわけでもなく、胸が締め付けられるわけでもなく、ただ淡々と儀式をこなした。
周りは泣いていた。親族も、父の友人も、みんな何かしらの感情を表していた。
でも自分だけが、まるで他人事のように、そこに立っていた。
「自分は冷たい人間なのか」
そう思った人もいるかもしれない。
あるいは、
「もう親のことなんてどうでもよくなったんだ」
と、自分を納得させようとした人もいるかもしれない。
だが、本当にそうだろうか。
何も感じないということは、本当に「何もない」ということなのだろうか。
むしろ逆だ。
何も感じないのは、感じないようにしているからである。
無意識に、感情を麻痺させているのだ。
それは冷たさではない。
防衛である。
人は、受け止めきれないものに対して、感覚を切断することがある。
悲しみが大きすぎる時、怒りが深すぎる時、あるいは関係が複雑すぎる時。
そういう時、脳は一時的に感情の回路を遮断する。
そうしないと、その場で崩れてしまうから。
喪主挨拶で何も感じなかった男は、冷徹なのではない。
まだ、父という存在を消化できていないだけだ。
親子関係というのは、思っている以上に複雑である。
愛されていた記憶もあれば、傷ついた記憶もある。
感謝もあれば、怒りもある。
尊敬もあれば、失望もある。
そのどれもが混ざり合ったまま、整理されないまま、時間だけが過ぎていく。
そして気づけば、親は高齢になり、やがて亡くなる。
その時、人は「もう終わったんだ」と思おうとする。
でも、終わっていない。
肉体とはお別れできても、精神的にお別れできていないことは、いくらでもある。
実際、親が亡くなってから、急に親のことを考え始める人は少なくない。
生きている時には避けていた感情が、死後に噴き出してくる。
それは、タイムラグである。
感情には、時間がかかる。
葬儀の時に何も感じなかったとしても、それは終わりではない。
むしろ、そこから始まることもある。
何も感じないということは、ある意味で「まだ抗議している」ということでもある。
親に対して、言いたかったことがある。
聞きたかったことがある。
理解してほしかったことがある。
でも、それが果たされないまま、死なれてしまった。
だから、心の奥底で抵抗している。
「こんなに簡単に終わらせていいのか」
「まだ何も解決していないのに」
「何も言えていないのに」
その抗議が、感情を凍らせる。
涙を出させない。
悲しませない。
そうやって、自分を守っている。
では、どうすればいいのか。
無理に感じようとする必要はない。
泣かなければいけないわけでもない。
感動的な別れをしなければいけないわけでもない。
そうではなく、まず必要なのは、
「自分がどう感じているか」を、自分で認めることだ。
本当は何も感じていないわけではない。
ただ、複雑すぎて言葉にならないだけだ。
怒っているかもしれない。
悲しいかもしれない。
ホッとしているかもしれない。
虚しいかもしれない。
どうでもいいと思っているかもしれない。
そのどれもが、嘘ではない。
そのどれもが、あなたの本音だ。
そして、その感情に対して、
「そう思ってはいけない」と禁止する必要はない。
親が亡くなった時に、悲しまなければいけないというルールはない。
感謝しなければいけないというルールもない。
どんな反応であれ、それはあなたの感情だ。
それを否定する必要はない。
生きていても、亡くなっていても、親に対して言いたいことを言っていい。
手紙に書いてもいい。
心の中で言葉にしてもいい。
誰かに話してもいい。
「本当は、こう思っていた」
「本当は、こうしてほしかった」
「本当は、許せなかった」
「本当は、もっと理解してほしかった」
そういう言葉を、出していい。
親はもういない。
だから、もう傷つけることもない。
もう否定されることもない。
だからこそ、ようやく言える言葉がある。
親との関係が未消化なまま40代に入ると、人は奇妙な虚無感に襲われることがある。
なぜか満たされない。
なぜか力が出ない。
なぜか、自分が自分でいる感覚が薄い。
それは、まだ親に縛られているからかもしれない。
生きていても、亡くなっていても、その影響は続く。
でも、親がどうであれ、影響を受けない自分になることは可能だ。
それは、親を憎むことではない。
親を美化することでもない。
ただ、親を「ひとりの人間」として見られるようになることだ。
完璧ではなかった。
未熟でもあった。
でも、それもまた人間だった。
そう思えた時、人はようやく親から自由になる。
親の評価から。
親の期待から。
親の失望から。
親の影から。
そして、自分自身として生き直すことができる。
それが、本当の意味での「リブート」である。
何も感じなかったことを、責める必要はない。
それもまた、あなたの中で起きている反応のひとつだ。
ただ、その反応の奥に、まだ言葉にされていない何かがあることを、忘れないでほしい。
それに気づいた時、止まっていた何かが、静かに動き出す。