自己表現において個性を研ぎ澄ますとは?
私の美術館での絵画鑑賞の仕方は
ちょっと変わっているかもしれない
だからなるべく1人で行くようにしている
作者や作品の
説明は事前に一切読まない
元々入っている情報は仕方がないが
初見の感覚に先入観や固定観念という
バイアスがかかるのが邪魔くさい
これは患者さんの診察においても同じことである
そして作品を直視しない
視点をずらしてなんとなく
ザーッと最初から最後まで
無心に眺めながら歩みを進める
この人ちゃんと味わって鑑賞してるのかな?
と思われても仕方ないだろう
絵画について
専門的な見解を述べることはできないが
今回も好き勝手に洞察してみようと思う
例外はあるが
多くの場合初期の頃の作品は
なんとなく暗くてじめっとしている
未熟ならではの魅力はあるかもしれないが
私のセンサーにはあまり響かないことが多い
思春期から青年期にかけての
作品が中心となっている
人間的な若さと
表現者としての若さと
勢いはあるけど
なんとなくまとまりがなく
訴えるものが乏しい
いや訴えてはいるけど
表面だけで叫んでいるような感じで
心の奥の方までは届かない
なんとなく
作品からもがきや迷いを感じるのだ
決して心地良い感覚ではない
ざわつくことはあるかもしれない
けどそのざわつきは
表面的で高次な自分が
反応しているに過ぎないのだ
最後までザーッと見終わった後に
ピンとき始めた作品まで戻ってみる
そこで初めてじっくり鑑賞したり
解説を読んだりし始める
するとそれは大体40歳前後に
描かれた作品だったりする
明らかにそれまでの作品と何かが違う
心のずっと奥の方まで何かが届いてくる
それまでは準備に過ぎないんだと思う
素描と編集を繰り返して
作品を生み出し続ける中で
出来上がってくる自分のスタイル
そこには訴えたいものが凝縮されてくる
これは人のライフサイクルにおける
成熟の過程にも同じことが言える
40歳ぐらいからやっと本当の意味で個を
意識できるようになるのかもしれない
自分とは何か?
自分自身はどうありたいのか?
自分にしかできないことは何なのか?
自分、自分、自分、、、、、
徹底的な個への渇望
そこに自分発の何かがある
まわりからの雑音には左右されなくなる
そうして初めて
深いところからエネルギーを放ち始める
そこに迷いは感じられない
見ていて気持ちがすかっとする
もがきの後に得られる快感のような
そこから改めて
自分の本当の人生が始まるのかもしれない
思春期ごろから本格的に始まる
自己の確立に向けての人生の旅
何者かになろうとしてもがいた先にあるのは
何者でもない自分を受け入れて
味わうことなのかもしれない
芸術家の人生と
作品への反映をリンクさせて眺めていると
そんな思いが湧きあがってきた
画家のような芸術家じゃなくても
人間は何かしらの表現活動をしている
それは精神内界を映し出す
スクリーンのようなものである
ごまかすことをもできるし
飾り立てることもできるし
自分をそのまま出すこともできる
はっきりとした何かをつかむというより
その模索過程の反映こそが
人の心を打つ芸術作品になるのであろう
そう考えると
人は誰でも芸術家なのである